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道玄坂をおりる/嫌な顔をされる 11

 上司が俺に対して傷付いたような顔をしているのに最初に気が付いたのは、会社の飲み会の帰りだった。上司は田園都市線沿いに住んでいて、使う電車が俺と同じだった。その日は永田町から俺と上司の二人だった。永田町の駅で、南北線から半蔵門線に乗り換える通路を歩いているとき、俺はぼんやりとしたまま、なんとなく上司の顔を見た。上司はひどい顔をしていた。苦痛に耐えているけれど、顔面はほとんどその苦痛に耐えることができていなくて、細かいしわが顔中に浮かんだ、こわばった悲しそうな顔をしていた。
 飲み会が解散してから、電車に乗ってここまで歩いてくるまで、上司との会話はなかった。その頃には、飲み会でも、上司と俺はお互いに離れた席に座るようになっていた。今となっては何も覚えていないけれど、飲み会での誰かとのやり取りが気に触ったとか、あまり気分のよくない話を黙って聞いていたからか、俺はそのときひどく気分が悪かったように思う。そして、気分が悪いまま、ぼんやりと上司と並んで歩いていた。俺は上司の顔を見ても、何とも思わなかった。何かあれば言えばいいのにと思っただけだった。俺が不愉快な気分をのせた目でぼんやりとしていて、自分に対してまったく注意を向けていないことが苦痛なのだろうと思った。だからといって、俺としては、何かあれば言えばいいのにと思っただけだった。
 そのまま通路を歩いて、半蔵門線に降りる長いエスカレーターでも、俺が前で上司が後ろに並んで、上司から話しかけられることもなくて、俺は前を向いたままぼんやりとしていた。そして、エスカレーターが終わって、半蔵門線のホームを歩き始めて、ホームをある程度歩いてから、そういえば上司はどの辺りが降りるのに都合がいいんだろうかと思って横を向くと、上司はいなかった。後ろを振り返っても上司は見えなかった。こちらから見えないように、ホームの反対側に立っているのだろうと思った。俺は、何か言えばいいのにと思って、引き返さずにホームの一番奥に歩いていった。面倒くさいなと思った。けれど、週明けに上司に声をかけ、気が付かないうちにいなくなってましたよ、という話をすることもないのだろうなと思っていた。そして、思った通り、そういう話をする機会はなかった。
 別に、今の上司だけではないのだろうと思う。ここまで関係がこじれた相手は今まで他にはいないけれど、とはいえ、今まで俺が関わってきた人のうち、それほど少なくもない人数が、俺の何も思っていない顔を前にして、俺に何かを言うのをやめて、黙ったままその場を流したことがあったのだろうと思う。
 道行く人に嫌な顔をされたり、そうでない人にしてもそうだけれど、俺の顔の何が相手に不快感を与えているのかというのは、なんとなく、そのせいなのかなと思わなくもないものがある。五年くらい前だったけれど、大学の同級生と飲んでいて、石ころを見るような目をしている、と言われたことがあった。
 同級生五人くらいで集まって、ずいぶんと飲んで、夜中を過ぎていたくらいだった。そいつは酔っ払って目がすわりかけている感じだった。そいつがぐったりとソファーにもたれかかり、俺は正面に座っていたそいつをぼんやりと見ていた。そいつが、持っていたグラスから飲み物を少しこぼして、少しいらついた感じで、うっとうしそうに手でソファーを拭って、それから、なんだよと言って、石ころ見るような目で見てさと言った。きっと、そのときそう思ったのではなく、そう思ってきたのだろうと思った。五年も六年も前から、最初に会ったときからそう思ってきたのかもしれない。そう言われて悲しかった。別に石ころだなんて思わないけれど、かといって、石ころを見るのと違う目で見ているわけでもないのかもしれないと思った。けれど、そんな目で見ていたとしても、それはそいつに対してだけではなかったし、そいつとは特別仲がよかったわけではなかったけれど、俺はそいつのことがとても好きだった。人に合わせるのが苦手な、すぐに投げやりになってしまう、自分の気持ちにこだわって窮屈になってばかりの、頭がよくて男らしい、とてもきれいな男だった。自分の友達と言えなくもない人の中では、そいつが一番きれいな姿かたちをしていたのかなと思う。そいつは、酔っているときのことはあらかた忘れてしまう男だったし、それを言われたあと、俺は何も答えなくて、それ以上何かを話したわけでもなかったから、そいつも自分がそう言ったのを覚えていないのだろうと思う。
 その後も、みんなで集まるたびに、そいつとは顔を合わせていたけれど、そいつの自分に対しての態度は変わらなかったし、自分のほうも、そいつに対しての態度や気持ちが変わったとは思わなかった。あの頃は、そいつ自身が、福岡に転勤させられ、つまらないつまらないと繰り返していたけれど、それからまた東京に戻ってきて、福岡にいたときに付き合い始めた女の人とも順調なようで、リラックスしてああだこうだと喋っているのを俺は楽しく聞いていた。俺としても、別に何を悪く言われたというわけでもなかったのだ。実際に自分がそういう目つきをしているということと、そいつがそれに対してどんなふうに感じているのかということを伝えられただけで、バカにされたわけでも、自分を貶められたわけでもなかった。
 ただ、あのときそう言われたあと、そいつとは関係のないところで、言われた言葉を思い出すようになった。自分と他人との関わりが、自分のひととなりのためにうまくいかなかったりしたときに、そいつにそう言われたことを思い出して、そして、自分はそうなんだろうなと思うようになった。そいつがすわりかけた目で、なんだよと言って、石ころ見るような目で見てさと言っている光景が、自分がどんな人間であるのかということを総括しているように感じるようになった。
 けれど、だからといって、その後、石ころを見るような目をしないようにしようと思ったわけでもなかった。あのとき、俺は何の悪気もなかった。ただ前を見ていただけだった。普通にしていただけなのだから、何を改められるわけでもなかった。



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