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道玄坂をおりる/嫌な顔をされる 15

 今日はどうなんだろうなと思う。何時まで仕事をするのだろうか。今日も用事はない。空いている時間で何がしたいというものもないから、いつもできるだけ仕事をしてしまう。当たり前なのだけれど、やれることはいくらでもある。けれど、どこまでやればいいんだろうと思う。
 何か用事があればさっさと帰るし、うんざりして会社にいたくなくなってしまうとそこで帰っていた。だいたいスケジュールを前倒しして作業を進めていたから、いつ帰っても何の問題もなかった。もっと自分がうんざりしてしまう沸点が低ければ、毎日さっさと帰ってしまうのだろう。案外みんなそんなふうにして帰っているのかもしれない。今の職場はみんな楽しそうに働いていない。仲良く私語を楽しんだりはしているのかもしれないけれど、ほとんどの人が、自分がやっている仕事から気を散らしたくて仕方がないように見える。そういう雰囲気もあの会社の嫌なところだなと思う。
 今日は会議もない。たまに喋ることのある、隣の席の業務委託で来てくれている人も午前中だけしかない。十一時半から昼飯に行って帰ってきたら、もうその人は帰ってしまっている。そのあとはずっと黙っているのだろう。黙っているとしんどくなる。今日もうんざりとするのだろう。
 今は、道玄坂を歩きながら、これでも気分がいいのだ。気分のよくないものも目に入りながら、それでも、景色に対して思いたいことを思っていられる。これから地下に入って、電車に乗って会社に行く。会社が近付いてくれば、今日もだんだんと息苦しくなっていくのだろう。そして、会社のフロアに入ってしまうと、どんな顔をすればいいのかわからなくなってしまう。笑いかけたり話しかけたりする間柄の人が誰もいないフロアの中を、どんな顔をすればいいのかわからないまま、息が詰まった苦しさをこらえている顔で、黙って歩いていくのだろう。
 そういうとき、俺はできるだけ何も見ないようにしているのだと思う。石ころを見る目ではなく、この坂道ですれ違っている人たちと似たような、できるだけ何も感じないでいいための目をしているのだと思う。そして、何も考えなくていいように、できるだけ仕事に集中しようとする。画面に向かって、顔に締りがない状態になってしまわないように少し気をつけながら、できるだけ早く終わらせられるように、たどっていくべき情報に目をすべらせ続けている。
 仕事をしていると、どうしたところで、ひとつひとつの細かいことに何かを思ってしまう。けれど、それは周囲の誰にとってもどうでもいいことで、何も思わないことだけが自分に求められているかのように思えてくる。会社の中には見たいものがない。少し画面から頭が離れると、視界に上司が入ってきて、不快な気配が伝わってくる。だから画面しか見えないように、前のめりになったまま、ただ粛々と仕事を進める。仕事を進めているうちに、自分の中にふつふつ湧いてくる気分が、憎しみのようなものに思えてくる。そのうちに深く息を吸うことも忘れてしまう。
 フロアを出て、昼飯を食いに行っている間と、喫煙所から遠くの景色を見ているときだけ、見たいものを見て、大きく息を吐きながら、たまにぼんやりと石ころを見る目をしているのだろう。たまに誰かと仕事の話をしているとき、たまに気楽に喋れる人が話しかけてきたとき、そういうたまにしかない時間以外の、社内にいる間のほとんどの時間を、何も見ていない目で過ごしているのだ。そして、帰り道はまた、石ころを見る目で、目の前の景色をぼんやりと眺めているのだろう。そして、その景色の中には人も含まれている。何千分の一か何万分の一かの確率で、目が合って嫌な顔をされるのだろう。あの白人の男にしても、そうだったのかもしれなかった。
 二十三時を過ぎた永田町のホームには人も少なく、俺は目に入ったその白人の男を見ながら歩いていた。男は線路の方に顔を向けていた。本も携帯電話も手にしていなくて、リュックサックを背負って、少し背中を丸めて、線路の向こう側の壁の方を見ていた。なんとなく、しょんぼりしているような、寂しそうな感じに見えた。何か考え事をしていたのかもしれない。思い出しているもの、思ってしまうもの、そういうものへの寂しさに浸っているような感じにも見えた。ぐったりとしているだけの、何も感じていないような目ではなかった。けれど、頬や口元の力の抜け方や、視線の向け方とか、顔つきがすっかり日本人的になってしまっている人だなと思った。そして、日本人的な顔つきになってしまっている人を見るたびに思うけれど、この人は鏡に映った自分の顔がそんなふうに変わってしまったことにどんな気持ちになっているのだろうかと思った。俺だったら、そんなふうに力が抜けて崩れていく方向に顔が変わるのは嫌だなと思う。つまらない場所で生活するようになったからといって、つまらなさそうにした顔が自分の顔になってしまうのは嫌だなと思う。会社のせいなのか、奥さんのせいなのかわからないけれど、そういうもののためだからといって、そんな顔になろうとしなければよかったのにと思う。そして、そんなふうに思いながら、俺はただ男を見ていただけだった。何の表情も作ってはいなかったと思う。だから、あのとき、白人の男は、その俺のただ見ているだけの顔に何かを感じたのだろうと思う。
 なんですか、と言いながら俺に近寄ってきたときも、男は嫌そうな顔はしていなかった。無表情に近い顔だった。目の中に怒りがあったようにも見えなかったし、恥があったようにも見えなかった。目の中に何かしらの感情があったとしても、それは薄い敵意とか、俺を責めるとか、俺の間違いを正そうとするような、そういう類の静かな感情だったように思う。
 あの白人はどういうつもりだったのだろうか。あのとき俺が立ち止まっていたら、何を俺に言うつもりだったのだろう。石ころを見るような目で見やがって、と言っていたのだろうか。あのときだって、俺はまったくひとかけらも、バカになんてしていなかったのに。

 坂をほとんど下り終わって、ユニクロの外人モデルの大きな写真が連なっているところを通り過ぎる。その先の、ビルに入っている各階のテナントの看板を越えたところから地下に入って、半蔵門線に向かう。
 今日もいつもどおり、階段を降りる途中に、階段をモップで掃除をしている人がいるのだろう。もう長い間、ずっと同じ太ったおじさんがモップをかけていて、制服の洗濯頻度の問題なのだろうけれど、たまにひどい臭いを発していた。そのおじさんが掃除をしている階段の踊り場で、最近、鏡になっている壁に向かって髪をいじっている男がいることがあった。鞄を足元に置き、壁から二、三十センチの距離に立って、顔を鏡に近付けながら、こそこそした感じでせわしなく髪の毛をいじっている。
 いつも鏡に近すぎて、顔をはっきり見たことはないけれど、少し長めな黒い髪をワックスでボリュームを出しているという感じで、背は一七〇センチもないくらいで、中肉といった感じの体つきだった。いつ見ても、窮屈そうなスーツを着ていて、その生地には安っぽい光沢があって、鞄も靴も落ち着きの足りないわざとらしいデザインで、格好つけようとしているのがなんとも格好悪いという感じのビジネススタイルだった。そういう格好をしている人はよくいるけれど、髪をいじる動作の、焦りながらこそこそしている感じと相まって、その男の狭量さというか、しょぼさのようなものが背中越しに伝わってきていた。ただ髪をいじっているだけにしては、不思議なほど見ていて嫌悪感が強い男だった。その男自身が、髪がまとまらないことや、後ろを人が通って集中できないことに、軽くパニックになるくらいにイライラしていて、その不快な気分がこちらに伝わってくるからなのかもしれない。
 今日は髪をいじっているやつがいないといいなと思った。エスカレーター側の壁は全面が鏡になっていて、俺も階段を降りながら、髪がはねてしまったり、変なふうに流れてしまっていないか確かめて直したりすることがあるけれど、その男がいると、髪を気にして直したりするということがいかにみっともないことかを思い知らされてうんざりしてしまう。
 階段の途中に掃除のおじさんがいて、俺が通るとき、モップを持った手を止めてくれたから、ありがとうございますと言って通り過ぎた。今日は臭わなかった。
 踊り場には、髪をいじくっている男はいなかった。別にいないからといってうれしいわけでもなく、いると嫌な気分になるというだけだった。
 あの男は、そんなふうに、他人からあいつがいないといいなと思われたりしている可能性について考えたことがあるんだろうかと思う。こそこそしているからといって、結局自分の恥を気にしているだけで、他人の目に自分の姿がどんなふうに映っているなんて考えもしないのだろう。別に俺も、汚い動きや気配を撒き散らされていることに生理的な嫌悪感が湧いてくるというだけで、何を思っているわけでもないのだ。髪を気にするならもっと普通に髪を気にすればいいのにと憐れに思うだけだった。
 髪をいじくっている男の他にも、会社までの電車の中で、たまに見かけるうちに目に付くようになって、顔を覚えてしまった人が何人かいた。けれど、その人たちはどれも、できればいて欲しくない人だった。どれも男で、不潔だとか鼻息が荒いとかではなく、髪をいじくっている男と同じように、視界に入っているとじわじわと嫌な感じがしてくるような、気配が醜いという感じの男たちだった。
 逆に、あの人がまたいたらいいなというように思っている人はいなかった。もう二年くらいだいたいいつも同じ時間に出勤しているけれど、一度もそういう人がいたことがなかったように思う。だいたいいつも同じ車両に乗っているから、この人はよく同じ車両に乗っているなと思うことは多々あった。そして、そういう人たちの中に、特に見ていていい気分になるような人はいなかった。携帯電話を触っていない人ですら、何も感じていないような顔をしている人ばかりで、見ていても何かいいものを感じることはなかった。目に留まっていろいろ感じてしまうのは、醜い人たちばかりだった。そして、歩いているのであればすぐにすれ違っていくけれど、車内では立ち止まっているから、ゆっくりとその人の気配を感じ取ってしまって、不快に感じる度合いも高まるし、その不快な感じが何分も続いてより嫌な気分になった。
 けれど、結局は、俺がわざわざ目の前の光景を詰まらないふうに見ているというだけなのだろう。会社が近付くにつれて気分がうんざりしていくのに任せながら、目の前の人々の姿にうんざりできるものを探し、自分がうんざりするもの仕方ないことだということを確かめようとしているのかもしれない。汚いものばかりに目がいくのは、自分でそうしていることなのかもしれない。



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