道玄坂をおりる/嫌な顔をされる 10
最初にそういう視線を感じたのは、勤め出して一年も経たないくらいの頃だったように思う。そして、視線はだんだんと険悪で長続きするものになっていった。そして、俺はその視線に対しては、最初から無視しているだけだった。何かあるなら言えばいいのにと思っていた。けれど、上司は何を言ってくるわけでもなく、俺の方も、何も言ってくれないからそのままにしていた。そして、そうやって一方的な視線のやり取りを繰り返すうちに、打ち合わせなんかで顔を合わせて話をするときに、相手が話しにくそうになっていった。それからも、話していないぶんだけ緊張が高まっていって、できる限り関わらないようにすることが当たり前になっていった。上司がセッティングする打ち合わせや話し合いの頻度は下がり続けたし、何の話をしていても、あまり掘り下げようとしなくなっていった。口頭で説明すればいいことも、メールですませてくるようになった。俺の方でも、報告のメールには詳細別途説明させてくださいと書いてはいたけれど、相手がそれに返事をしてこなかったり、いつまでも説明を求めてこないときは放置していた。俺が何かを報告をするために上司の机に行っても、少しびくついて、そわそわした感じで何も質問してこなくなったから、話したとしてもすぐに終わるようになっていった。
最近では、上司と少しでも話すことは珍しいことになっていた。それでも、月に一回あるかないかくらいで、放置されていた案件について、さすがに話さないといけないという感じになって、会議室で二人で向き合って話すことがある。
向き合って話しているには、上司も睨んできたりするわけではないから、会話は普通に進んでいく。俺から言いたいことは何もなかったけれど、仕事の報告があったり、それ以外のことでも、上司が何か聞いてくれれば、その内容についての会話は成立していた。けれど、仕事上必要なことを話しているばかりで、それ以外のことを話すことはほとんどなかった。そして、上司はいつも少し固まったような顔をしていた。そして、そういうふうに少し硬くなりながら話しているときに、冗談っぽく何かを言って笑ってみたりすることがよくあった。けれど、上司の冗談というのは、内容として不愉快なものが多くて、面白いと思えるものではなかったし、上司にしても、そういうことを言ってみたことで楽しそうにしていたことは一度もなかった。こわばった雰囲気のまま、形だけの冗談を言ってみて、それでこの人は何を思っているのだろうなと思っていた。ひとりで少し笑って、自分の笑いを自分で流しながら、おぼつかなさそうな顔をしていたけれど、こうやって冗談が空回りして、俺がそれに黙っているというやりとりを繰り返すたびに、上司の中の俺と上司の関係というものが冷たいものになっていっているのだろうなと思っていた。
この会社に来てすぐに思ったことだけれど、この人とは話がしにくいなと思っていた。何かのノリを付け加えてしか話ができない人だった。駆け引きのように話し掛けるばかりで、ちっとも気持ちを伝えてくれることがない人。俺はそういうのには付き合わないよ、と最初に伝えられる機会があれば、こんな関係にはならなかったのかもしれない。
上司と向き合って話しながら、この人はいろいろと言いたいことがあるのだろうに、そのうちの何一つも言っていないのだろうなと思ってきた。どこかでふんぎりがつくのだろうかとか、最後までそのままなんだろうかとか、そんなことを思いながら上司の顔を見ていた。興味がないわけではないのだ。今までの経緯があるぶん、この人がどうするつもりなのか、ずっと上司のことを眺めてすらいられるのだと思う。
かといって、眺めていられるというだけではあるのだろう。何を考えているのだろうと思いながら、上司の顔の上で、上司の気持ちのようなものがそわそわ動いているのを眺めていると、どうしてなんだろうと思えるけれど、それに対して、どうしてほしいということは何も思い浮かばないのだ。
上司に対して、俺はもう何も求めてはいないのだと思う。何も求めていないし、何の用もないのだ。それに対して何かをどうにかしようという対象ではなくなっていて、そういう意味では自然現象を見ているのとたいして違いがないのかもしれない。睨まれて不快に思っているのは、風が強くて寒いなと思っているようなものだし、上司と面と向かって、こわばった顔でそわそわした姿を見せられているのも、雨が降っているな、今日の雨は長いなと思っているようなものだった。今日の上司はこんな感じなんだなと思いながら、それをただ眺めているだけだった。
上司が俺に対して何も言えないのは、そのせいなのだろうと思う。仕事に対してはしっかりやろうとしているし、自分の言ったこともやるし、自分が何か言えば真面目に答える。けれど、そうしながらも、自分に対して何も感じていない顔で、自分のことを見ているのだ。俺のそういう顔に、上司はさぞかし傷付いていたのだろうなと思う。ただ自分を見ているだけで何も思っていなさそうな俺の顔も、うんざりしたまま完全に自分の視線を無視して淡々と仕事を進めている俺の顔も、自分への拒絶のように感じられたのだろう。
けれど、拒絶されたように感じたとしても、言いたいことを言えばよかったのだ。いくらでも話をする機会はあった。毎日のように二メートル以内の距離で長い時間を過ごしていたし、二人で会議室で話す機会もあったし、その機会を簡単に作ることもできた。けれど、いつまでも上司は何も言わずに、面と向かえば何か言いたそうな顔をして、面と向かっていなければ嫌な視線でこちらを見ながらじっとしていたのだ。
とはいえ、どうしようもなかったのだろう。俺と面と向かうたびに、何か言おうという気持ちがしぼんでしまっていたのかもしれない。面と向かえば、どうしたところで上司の方がしょぼかった。上司の方がそう思っていたのだろうと思う。容姿とか、落ち着きとか、集中力の持続具合とか、いろんなことにそう思っていたのだと思う。
思い返すと、半期ごとの評価で面談をするたびに、いろいろとこちらを褒めようとしてくれていた。特に言うことはありませんとか、そのまま頑張ってもらえればいいですとか、完璧だねとか、よくもそんなにこなせるなとか、いろいろと言っていたなと思う。けれど、どんなふうに褒められても、うれしくもなんともなかった。人を持ち上げる前に自分の低さを考えてくれればいいのにと思うだけだった。部長なのだから、部長の仕事をもう少しまともにやって欲しいと思うだけだった。
俺はただ、一緒に仕事をして欲しかっただけで、そして、一緒に仕事をする相手が何かの面で多少しょぼいくらいのことはまったく気にしなかったのだ。人と話すときに手が震えたり、歳のわりに白髪がちだったり、仕事に取り掛かる腰が重かったり、人の話を聞いているのが苦手だったり、熱意を持って何かを伝えるということができないから、何を話していても誰からも特に感心されることがなかったり、あまり面白くない冗談を言いたがったり、その冗談も他人に同調して笑うことを求めるような感じの言い方だったり、自分の冗談があまり面白くないことを自分でわかっていなかったり、そういうことは、別にどうでもよかったのだ。人に注意するときに、相手にダメージを与えようとする言い方をしたり、自分の居心地が悪いと人の悪口を言いたがったり、その悪口が冗談には聞こえない感じの、人を貶める方向の悪口だったりするのは、一緒にいて毎回嫌な気持ちになったけれど、それくらいだろう。
どうであれ、お互いの意見を求め合って、お互いの仕事を気に掛け合って、そうやって一緒に仕事をやっていければ、俺はそれでよかったのだ。放任主義を履き違えて、まったく他人の仕事を知ろうとせずに、自分の仕事を伝えようともせずに、たまの評価の時期に適当に結果だけ見て褒めておけば、こちらが満足するとでも思っていたのだろうか。
もちろん、上司としては、自分にできることをやった結果として、そんなふうにしかできなかっただけだったのだろう。単純に人と一緒に仕事をした経験が足りないせいで、今の時点での人と一緒に仕事をする能力が足りないというのはそうなのだ。そして、今にしても、そういう経験になるような取り組み方をしているわけでもない。きっと、そういうふうに、管理職になってからも自分本位にしか仕事のできない人というのも珍しくなかったりするのだろう。
けれど、俺は前の会社でそうではない上司と一緒に働いていた。そして、その人と仕事ができてよかったなと今でも思っている。俺にしても、自分の下に人がついたときは、できるだけ一緒に仕事をしているふうに感じてもらえるようにと思っていたから、そういうことは最低限のことにしか思えなかった。
たまに、上司を見ていて、この人は俺から慕われたかったのだろうなと思うことがあった。上司と部下なのだから、慕ってくれてもいいんじゃないかと思っていたのだろう。確かにそうなのかもしれない。けれど、そんなことを俺に期待するのを当然のことだと思っているのなら、ひどい勘違いだなと思う。相手が上司だからといって、部下のこちらが何もかも折れて、建設的にならないといけないわけではないのだ。この会社にいて、この会社でうまくやっていくことが俺の中で前提になっているのなら、そうなのかもしれない。けれど、俺にとっては、この会社で働くことは前提ではない。ここで働かなくても、他のところで働けばいい。ここでうまくいかなければ、どこに行ってもうまくいかないわけではない。ここではこんな人が上司だけれど、他に行けば違うし、みんながみんなこんな上司なわけではないのだ。
上司にしても、俺がいつ辞めると言い出すかと思って、話しにくそうにしていたのかもしれない。二人だけで話していて、話を切り上げるときなんかは、何か言われるのではないかと警戒しているような顔だったように思えなくもない。上司からしても、今から俺との関係を修復できるイメージはないのだろうし、この職場に俺は合っていないとも思ってもいたのだろう。俺が辞めると自分が言うのを待っているのと同じように、上司も俺から辞めると言われるのを待っている状態なのかもしれない。
けれど、上司がどう思っていたにしろ、俺はそんな上司を眺めていて、こちらが何もかもお膳立てしてあげるしかないのだとは思わなかった。そんなふうに思えるほど、優しくしてあげたちという気持ちにはなれなかった。そして、優しい気持ちにならなかったうえで、俺は普通にしているだけのつもりだった。この人がこんなふうなのであれば、自分は何の役にも立てないな、うまくいかないことで苦しめているばかりだな、早く辞めてあげないとな、とりあえず言いたいことが何もないな、そう思いながら眺めていただけだった。そして、上司はそういう顔をした俺に何も言えないのだ。
今日も会社に行けば、上司は自分が睨んでいることを無視して仕事をしている俺の方に顔を向けて、考え事をしているふりをしながら、いつまでも俺を睨んで時間を無駄にするのだろう。きっと最後までそうなのだろうと思う。俺が辞めると告げて、そして実際にいなくなるまで、上司は俺を睨んでいるのだろう。
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