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道玄坂をおりる/嫌な顔をされる 9

 道玄坂から文化村通りに抜ける道の入り口で、今日も客引きが何人か突っ立っていた。客引きのひとりが、坂を上ってくる男に声をかけたけれど、その人はそれを無視して通り過ぎて、嫌そうにため息をついた。それくらいのことをいちいち迷惑に思わなければいいのにと思う。
 確かに、俺も朝から客引きをしているというのは、どうにもろくでもないなとは思う。明らかに通勤途中でも声をかけてくるし、俺も歩いていて客引きと目が合うことは多いけれど、挨拶の代わりのようにして、いかがですかと形だけな感じで声をかけてくる。夜は夜で、道玄坂の両側の広い範囲にもっと人数が増えて、さらにろくでもない。けれど、そのろくでもなさが、毎日この通りを行き来する自分にとってはよかったりもしているのだ。朝にしたって、みんなばらばらな行動をしているから、歩いていて気がまぎれる。そして、会社からの帰り道では、飲みに行こうとしていたり、飲んで帰ろうとしている人たちが、日付が変わる頃までごった返している。たくさんの客引きがそこら中をうろついていて、坂の中間くらいには、中国人の女たちが何人も並んで、手当たり次第に声をかけている。酔っ払いを避けて、中国の女の人と客引きを無視するなり首を振るなりして素通りして、ろくでもないなと思いながら坂を上っていく。そうしながら、俺は楽しそうで何よりだなと思っている。
 楽しそうな人がいると安心する。楽しもうとしているのなら、それだけでずいぶんいい。何もない顔が気持ち悪いのだ。騒がしい酔っ払いだったとしても、楽しもうとしている人は、見ていて嫌ではない。渋谷に住んでいてよかったなと思うのは、まずはそれだった。賑やかにしている人がいて、楽しそうにしている人がたくさんいる。自分がその中で楽しんでいるわけではなくても、毎日の帰り道がそんなふうであることだけで、楽しそうで何よりだなと思えて気分がましになる。部屋に帰っても、夜中に酔っ払いが楽しそうに騒いでいるのが聞こえてきたりすると、楽しそうで何よりだなと思える。自分は部屋でひとりでも、近くに楽しそうにしている人がいると思うと、少し気分がよくなる。
 客引きの男が、歩いてきた四十代くらいのおじさんにも声をかけた。おじさんは、客引きに視線をやることもなく素通りしていった。おじさんは、ぐったりとした無表情のままで、客引きに対しては完全に無反応だった。客引きが通り過ぎていくおじさんを見ながらにやけていた。どうせ暇だからと、いかにも反応しなさそうな人にふざけて声をかけていたのだろう。おじさんも客引きも、お互いにバカにし合っているのだろうけれど、それを俺がはたで見ているには、おじさんの顔のぐったり具合があまりに度が過ぎていて、客引きがわざわざちょっかいをかける必要があるかどうかは別にしても、バカにされるのも仕方がないのかなと思ってしまう。
 おじさんからすれば、ただただ疲れているというだけなのだろうし、自分の顔のことなんて、ひたすらどうでもいいというだけなのだろう。けれど、そんなにも簡単にぐったりできてしまうからといって、そんなにもしょぼく見えてしまうのでは、誰からというわけではなくても、見る人が見ればバカにされてしまうのになと思う。
 けれど、おじさんのしょぼそうな顔にしたって、はたから見れば、わざわざ自分でしょぼそうな顔をしなければいいのにと思うけれど、その人にとってはそういう問題ではなかったりするのだろう。おじさんはすでにしょぼい顔をするのが板についた人になってしまっているのだ。そういう人が、いまさらしょぼくない顔をしようとするには、しょぼくないかのような顔で振舞って、それに対して他人から白い目で見られないで過ごしていくことが必要になってくる。すでに現在しょぼいやつ扱いされている人だったとすれば、しょぼいやつ扱いではない扱いを受けること自体が難しかったりする場合も多いのだろう。いまさらどうしようもないと思って、しょぼくれ続けている人が世の中にたくさんいるのだと思う。
 けれど、しょぼいということがどうしようもないとか仕方がないというのは、どういう状態なんだろうと思う。そんなふうに年を取っていくというのはどういう感じなのだろうと思う。道行く人にしょぼいなとバカにされるなんて、あまりにもみじめな気がする。
 きっと俺は、バカにされなければそれだけでいいんだろうなと思う。少なくても、丸刈りのおじさんのようになりたいわけではないのだ。社長のように笑いたいわけでもないし、いつ見ても同じ感じな人だなと思われたいわけでもない。ぐったりしている人たちの一員にもなりたくないし、はっきりしすぎた人たちの一員にもなりたくない。かといって、どうなりたいというわけでもないのだ。バカにされたくはないけれど、あとは自分なりに普通にやっていけばいいとしか思っていないのだと思う。誰かとの関係がうまくいかなかったり、会社に馴染めなかったり、たまに嫌な顔をされたりするたびに、こういう自分はよくないのかなと思う。かといって、今までも、それをどうにかしようとはしてこなかった。自分なりに普通にやってきた結果として今こうなっていて、そして、普通にやってこれなのだから、自分はこのままでいいと思ってきたのだと思う。
 そもそも、どういう人になりたいというようなことを思ったことがあったんだろうか。記憶にある範囲では、誰かのようになりたいと思ったこともないし、誰かのことをうらやましいと思ったこともなかった。俺は俺なりに普通にやっているだけで、何かのようになりたいとも、何かのようになれるとも思っていなかった。何がしたいというわけでもなく、成り行き任せでやってきたのだと思う。
 ただ、今までしてこなかったし、これからもしたくないと思っていることくらいならあるのだろう。例えば、自分が同意できないことに同調したふりをするのはずっと嫌だった。思ってもいないことを言いながら、思っているのとは別の顔をするというのも嫌だった。そして、実際にそうしてきた。そう思わないときは、そう思わないなという顔をしながら、自分が思いたいことを思っていた。そして、そういう自分の態度に対して、他人からどうこう言われないようにしようとしてきた。仕事では、まわりよりも仕事をこなして、まわりよりも自分本位にならないように気をつけて仕事をしてきた。人付き合いでも、最初からほとんどの人とは仲良くならないだろうと思ったうえで関わっていた。たまに誰かが自分に興味を持ってくれたときに、その人と仲良くなれればそれだけで充分だと思って、誰に対しても無理して近付こうとしてこなかった。いつだって、あまりまわりを気にしないで、思いたいことを思いながら、ぼんやりしていた。
 思い返してみても、自分がどう思うかとは関係なく、とにかく誰かに言われたとおりに行動しなくてはいけないという状況に、俺はほとんど置かれたことがなかったような気がする。せいぜい小学校高学年の少年団野球くらいなのだろう。学校でも会社でも、相手の指示には基本的に従わなくてはいけないという人間関係を経験したことがなかった。だから今でも、自分が同意できないことは、同意しかねる顔をしながら話を聞いているのだろうし、どういうことであっても、話し合ってお互いに納得できるように進めるものだと思っているのだろう。
 今だって、俺はただ自分なりに普通にしているだけなのだと思う。もう職場のことは、ただ嫌で嫌で仕方ないだけだけれど、かといって、何でも言われるままに受け流すというのも気分が悪いから、合わせたくないものにはまったく合わせないようにしている。仕事は少なくても周囲よりはしっかり進めていたけれど、特に楽しそうでもない顔で、ひたすらに画面にしがみついて仕事をしていることで、人を遠ざけてきたところもあるのだろうと思う。
 誰からも軽くは扱われないけれど、程度の差はあれ、周囲の人たちはみんな俺に対して関わりにくそうにしているところがある。部署内の会話のトーンが仲間内のノリばかりなこともあって、仕事を冗談っぽくいい加減に扱っていることもよくあるけれど、そういうとき、俺は黙っていたり、そこまでの話のトーンには付き合わずに意見を言ったりしていた。まわりの人からすれば、いつもの感じでいい加減に話を進めにくくて、やりにくかったりしているのだと思う。そして、それ以上に、バカにされていると思わせてしまっているのだろうなと思う。わざわざバカにしようとはしなくても、仕事のやり取りをしていると、相手がいい加減に言っていたりやっていたりすることをフォローしたり訂正しなくてはいけないけれど、そういうときに、俺は呆れていたりする気持ちをあまり取り繕おうとはしていなかった。実際、バカにしている仕事のやり方をしている人たちに対して、一緒にされたくないと思っている部分はあるのだと思う。
 上司以外の人からすれば、俺は自分の部下というわけでもないから、ただそういうやつだからと流しているのだろうと思う。上司以外とは、表立って誰と仲が悪いというのもなかった。かといって、誰とも特別仲良くはなかったりもする。隣の席にいる業務委託で社外から来てもらっている人たちとは、多少仕事上のやり取りがあったから、その人たちと喫煙所で一緒になると、いろいろとお互いのことを話していたけれど、多少仲がよかったとしても、その人たちくらいだった。
 けれど、上司としては、他の人と同じように、俺に対してただそういうやつなのだと流してもいられなかったのだろう。そもそも、俺がうんざりしているのは、上司との仕事にうんざりしているという面が大きかったし、それは上司も感じていたのだろうと思う。毎日何十分も睨み続けられるだけの感情が俺に対してあるのだ。たまに、立ち上がるときに少し顔が見えたりするけれど、本当に嫌な顔をしていた。


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