道玄坂をおりる/嫌な顔をされる 12
その友達がどういう意味で石ころを見るような目といったのかはわからない。あいつが石ころを見る目と、俺が石ころを見る目とでは違っていたりもするだろうと思う。多分あいつは、取るに足らないものを見るような目という意味で言っていたのだろう。けれど、俺はそうではない意味として、自分が石ころを見るような目をしていると言われたことに納得していた。
そもそも、石ころを見る目というものがあって、石ころを見るとそういう目になるということではないのだろう。単純に、石ころを見たときにそんな目つきになるということで、普通は石ころなんて見ても仕方がないのだし、見ても仕方がないものを見ているような目という意味で、石ころを見るような目と言っていたのだろう。けれど、石ころをじっと見ることもできる。そして、俺はあのとき、石ころをじっと見た場合の目をしていたんじゃないかと思う。
石ころを見ていたって、それはただ石ころというだけなのだろう。俺は石ころに用があるわけではない。石ころに何か言いたいことがあるわけでも、石ころに何かして欲しいことがあるわけでもない。そこに石ころがあって目が留まっただけだから、見る以外にすることがない。見ているうちに自分の中に浮かんでくる印象に、この石ころはそういう石ころなんだなと感じていることができるだけなのだ。
別に何の意味があるわけでもなかったり、何を思うわけでもないものでも、これはこういう感じなんだなと思いながら、それをぼんやりと見ていることはできる。俺はそういう眼差しで何かを見ていることが多いのだと思う。歩いていて景色を眺めているときもそうだし、誰かと一緒にいるときに、少しぼんやりしてしまって、目の前の状況に対して気持ちが一歩引いたような状態になってしまうと、目の前の状況が自分にとってただの景色でしかないものになってしまうことがあった。そして、その景色に自分は用があるわけではなく、その景色に言いたいことがあるわけでもなく、その景色に向かって何かしたいことがあるわけでもないから、俺はそういうとき、特になんというわけでもない顔をして景色を眺めているのだと思う。ただ、そういう景色なんだなと思いながら、その景色が自分にとってどんな感触なのか感じているだけになってしまうのだ。
石ころを見る目と言われたときもそうだったのだろう。ただ、飲み会の中でふとぼんやりしてしまって、正面に座っていたそいつを中心にして、飲み会の景色を眺めていただけだった。もちろん、あいつからすれば、自分の正面にいる人が、何というわけでもない顔をして自分を見ていたのだ。自分がここにいるのに、自分を中心に据えながら、ただ景色を見ているような空っぽな顔をしていたのだから、あいつがそれに不快な気持ちになったのは当然のことだったのだと思う。
当たり前だけれど、俺の方としても、悪意があって空っぽな顔を人に向けているわけではないのだ。それは俺の癖のようなもので、人の姿を見ていたり、人の話を聞いているときも、映画を観ていたりとか、何に没頭しているときも、たいてい俺はただ感じているだけで、表情のようなものを作ろうとしていないのだと思う。表情は気持ちが動いてから出てくるのだろうし、気持ちが動くためには、まずは感じなくてはいけない。
俺にとっては、見るとか聞くということは、感じながら待っているということなのだと思う。目や耳が感じたものに、自分の気持ちが何かを感じるのを待っている。それを待ちながら、感じているものにぼんやりと浸っているような感覚でいる。それは相手の言っていることに対して自分の意見を考えるということではないのだ。自分にとってそれがどういう意味を持っているのか判断しているのでもない。自分の感覚の中に、感じているものの質感を入れて、それがそれ自体としてそんな感触であることに浸っているような感じなのだと思う。そして、その感触が自分の中にあることが、自分をどんな気分にさせるのか、自分の気持ちが動くのを待っている。そして、ぐったりと汚く顔を歪ませている人を見ているときのように、その感触が自分にとって嫌なものであれば、嫌な気持ちでできたものがそこにあるなと思って不快な気持ちになるし、逆に、その人を見ていて、いい感触が感じられたときは、うれしくなりながら、それにもっと浸っていようとする。楽しさでも、安らかさでも、何かしら充実したものがその人の中に感じられれば、そんなふうに充実したものがそこにあることに気分がよくなる。
そうやって気持ちが動くまで、俺はそれを感じていても、ただ感じているだけの空っぽな顔をしていることが多いのだと思う。そして、感じているうちに気持ちが動いてうれしくなったとしても、うれしかっただけでは、自然とうれしそうな表情になるわけではなかったりもするのだろう。表情を作るというのは、意識しているにせよ、意識していないにせよ、相手との関係性の中で、相手に対してメッセージを示すようにして作られるものなのだ。俺だって微笑みかけられれば自然と微笑み返すけれど、そうやって相手との関係性にすっぽりと包まれる前の、ただ感じているだけの状態のときには、俺は相手にどういう顔を向けたいということもなく、ただぼんやりと相手を見ているだけになっているのだと思う。そういうときの俺の目は、自分ではそうは思わないけれど、他の人からすると、石ころを見ているような目に見えるのかもしれない。
五年前のあのときに、俺が石ころを見るような目で人を見ていたのだとしたら、その度合いはより強まっているのかもしれない。年を追うごとに、目の前の風景や、人が何かしている光景を、何も考えないまま、ぼんやりと眺めていることが増えてきているように思う。
そして、これは目つきの問題ではなく、単純に年を取ったということなのかもしれないけれど、いつからか、石ころでも、木でも建物でも、何かに光に当たっていたり、雨に濡れていたりとか、そういうことがきれいだなと思うようになった。渋谷に引っ越してきたのは三年ほど前の春だったけれど、朝の光の中で道玄坂をくだっていくのがとても気持ちよくて、風景に対してそんなふうに感じるようになったんだなと、自分でも不思議な気分になった。
いつからそうだったのかなと思う。ここ数年で、自分の中で変わったものはあるのだろうと思う。前の前の職場、前の職場と、毎日長い時間働いている中で、仕事以外のことを思う時間が細切れにしかないままで何年間かを過ごしてしまった。その中で、付き合っていた女の人と別れて、その後、好きになった女の人と親しくはなったけれど、それ以上にはうまくいかなかったりした。それからは、それなりに気持ちがショック状態だったのだと思う。
その頃は、仕事にはやりがいのようなものがあるにはあった。客からも信頼してもらえるようになっていたし、まわりの同僚からも頼ってもらえていた。けれど、だんだんと仕事に慣れてきてしまった。自分の客の仕事だけではなく、まわりが面倒がって放置していた仕事を拾って片付けていったりし始めて、それまでよりも、みんなの役に立てているように感じられたりもしていた。けれど、どうせできるだろうと思っていることをひとつずつ片付けているだけのように感じて、退屈な気持ちをどうにもできなくなっていったのだと思う。そして、だんだんと、何もかもどうでもいいなと思うようになっていた。
あの頃、渋谷に引っ越してくる前の、まだ荒木町に住んでいた頃に、自分の中でいろんなものが変わってしまったように思う。だから、しばらくして環境を変えて渋谷に越してみたときに、新しい景色に今までと違う感じ方をしたのかもしれない。
渋谷に越して一年以上経ってから、ひとりの女の人と付き合ったけれど、その人に対して、それまでの恋愛よりも、その人自身の人としての素晴らしさに、何度も心を強く揺さぶられた。景色と同じように、人に対しても、近い距離でゆっくり話せたときに、その人にぼけっとしながら、その人のよさを強く感じられるようになったのかもしれない。もちろん、その女の人が素晴らしい人だったから、そんなふうに他人を大切に見詰めることができたのだろうし、それ自体が、その人に教えてもらえた感覚だったりもするのだろう。けれど、ぼんやりすることが増えるにつれて、いいなと思えるものに、いいなと思える度合いが大きくなったというのはあったのだと思う。
けれど、年を取って景色がきれいに見えるようになるというのは、よくあることのようだし、年を取るほど人の情に触れてほろりとくるようになるということもよくあることなのだろう。やっぱりただ自分が年を取ったというだけなのかもしれない。
(続き)
(全話リンク)