奨学金返済中の身で思うこと色々
このようなニュースを見た。
私も奨学金にお世話になった身であり、現在進行形で返済中のため無関心でいられない。
「奨学金は自分で借りる『借金』だからね。しっかり自分で返しなさいね」と母に口酸っぱく言われつつ、「ヘイヘイ。分かってますよ」と18歳当時は深く考えなかった。やがては就職し働き、給与を得て、コツコツ返せばよいだけだと考えていたから。まあ、その通りだが。
真面目な性格の人ほどそうだと思うが、『借金をしている』という心理的負担は結構大きい。プレッシャーが生まれる。ただ捉え方次第で、個人的には、20歳前後の青年の人間的成長に役立つ経験であると思う。特に地元を離れ大学に進学した学生には、なるべく両親や親族に心配をかけまい、しっかり自立しよう、という思いが少なからずあるだろう(特殊な事例を除き、それがあるべき姿勢と思う)。
先ほどのニュースでは日本学生支援機構の貸与型奨学金が取り上げられていたが、私は別の奨学金を利用した。一つは地元の育英会による無利息のもの。これが一番金額が大きく、250万円弱。現在も鋭意返済中である。二つ目は、成績優秀者に給付される学費半額免除のもの。三つ目は、定期的に奨学生を募集する給付型の民間奨学金。(記憶が正しければ、四年間でこの三種を利用した)
いずれも相応の条件があり、当然給付型のほうが条件が厳しい。両親の年収が一定の水準以上だと申請すらできない。特に二つ目などは上位2~3%の成績を取らねばならず(当時の学生数から算出すると上位5名ほど)、講義ではいつも最前列に座り時には手を上げて発言するなど積極的に参加する必要があった。また、小論文を提出しなければならなかった。自分はいかに真面目かつ誠実で、勉学に励む人間かというのを必死でアピールする。毎年申請の時期になると頭を抱えながら原稿を書いていたものである。一番目の無利子奨学金に加え、給付型を度々受けられたという点において、私は『借金組』の中でもまだ負担が少なく済んだほうだろう。
とはいえ、だ。これらは『お小遣い』ではない。心して使わなければならなかったし、万が一自分が返済できないということになれば、同郷の後輩に迷惑がかかる(お金はサイクルしているので踏み倒すと奨学金制度廃止につながりかねない)。浪費をせぬよう気を付けた。
…と、このように奨学金を受けることは、『目標に向けて正しい努力する経験』や『お金の使い道を正しく考える練習』につながる。つまりは、子どもの自立にポジティブに働く。
確かにニュースで報じられているように、生活面で苦労することも大いにある。これまでの話を聞くと「なんだ沢山もらってるじゃん」と思われるかもしれないが、これがいざ生活すると全然余裕がない。扶養ぎりぎりまでアルバイトをやっていても、だ。やればわかる。食費を切り詰めなければやっていけないのでしばらくは食パン生活、なんてことはザラにあった。私は今でもその癖が抜けず、食事の回数はなるべく少なく、費用も切り詰めてしまう。料理をするとき以外は元栓を締め、外出する度にブレーカーを切る。最近ようやく改善してきたが、一時期は毎日のシャワーも最低限の出力、部屋の電気も基本使わずにアウトドア用のライトを使用していた。度を過ぎた倹約である。(もしかして強迫観念?)
これらは『お金を使うことへの罪悪感や恐怖心』からきている。遠方の家族を安心させるため、あるいは、なるべく滞納せずに借金を完済するため『不用意にお金を使う=許されないこと』という意識が自分に刷り込まれていた。奨学金という大きな借金を若いうちに背負う弊害ともいえるだろう。生活に必要な出費すら勿体なく感じるのである。
私の尊敬するある人が「人生はお金が9割。心が1割」と言っていた。彼がそういうなら、きっとそうなのだろうと信じているし、私自身も何となくそう感じている。
出版社で書籍編集者をしていた頃、瞬発的に売れる書籍には共通点があることを学んだ。キーワードは『健康』『お金』『損』『得』の四つである。いくら本が売れない時代でも、これらに関する情報に人は飛びつく。時間とお金を惜しまず使う。ゆえにこの領域での詐欺も多い。物事を見極める智慧を身につけなければならない。
奨学金を切り口に記事を書いたが、本質はお金との向き合い方である。特に昨今は新NISAやら103万円の壁やら、家計に直接的に影響する話題が取り上げられている。背景には、少子高齢化と40年ぶりのインフレの影響があるが、こうした現代社会を読み解くにも、お金と向き合う経験は役に立つ。
生活が苦しいのは分かる。しかし問題は、そこでいかに学びを得て、いかに生きていくか、ではないだろうか。