コラム「新風」 のれん探訪
フォトグラファーの北山さとです。
「とっておきの京都手帖」、編集・撮影を担当しています。
皆さま、いかがお過ごしでしょうか。
京都には見どころが多い。
私は京都に住んでいながらも、仕事や所用ではマイカーでの移動がほとんどだった。
ただ、祇園祭の時期は公共交通機関も上手く活用するようにしていた。
そしてその時に、初めて「京都の夏の風物詩」である「祇園祭」の1ヶ月間を肌身で感じた。
ちょうど時を同じく、白石さんが京都広告協会の責任者をされていた時の集いで、興味深い講演を聴いた。
「のれん文化」についてである。
2007年、京都広告協会創立50周年記念事業として「京・のれん考」が第1回全広連鈴木三郎助大賞を受賞したという。
そこから私は、「のれん」にますます興味を持った。
いや、「のれん」への興味を思い起こさせてくれたといった方がしっくりくる。
これまでも、母の影響で和物が好きで、「のれん」にも多少興味があった。
しかし、講演を聴いて、改めて京の街を見てみると、こんなにも「のれん」があふれているのかと思った。
「のれん」のある街並みに、慣れ親しんできた20代前半の頃の記憶が蘇る。
そうだ、京都市内中心部は、「のれん」が軒並み出されているのだ。
他地域には見ない、京の「のれん文化」だと思い出させてくれた講演だったと思った。
電車に乗る時間までの束の間、歩く通りを変えるだけで、「のれん」との出会いがあった。
そこで私は、当時は携帯電話のカメラ機能を使って、「のれん」写真を撮り溜めていった。
時には、「のれん」だけでなく店をアピールするものとして看板や提灯等もある。
広い意味での広告サインととらえ、そういった意味から「『のれん』プラス1」として後にInstagramを始める。
Instagramの自己紹介にはこう綴った。
「のれん」ぷらす1_探訪
@noren_tanbou
2006年からケータイ片手に、京都の「のれん」をメインに看板などを探訪。
「のれん」からは、「さあ!仕事をはじめるぞ」との心意気が伝わってきます。ビジネスとアートの美しいセッション『のれん文化』に触れてみてください。
出会えば出会うほど魅せられ、撮れば撮るほどそのアートに惹かれた。
気が付けば、いつしか投稿数は800を超えていた。
Instagramでは、書道の先生との出会いもあった。
「のれん」写真を見てくれた、あるアーティストからは、「のれん」作りの相談を受けた。
その「のれん」がシンボルになっていると喜んで頂いた。
海外の方にも見て頂き、「のれん」を通じて和文化の発信ともなっていることを強く感じる。
そして自分にとっても、日本史と重ねて知るにつれ、時代背景がよく見えてくることもある。
「のれん」プチ知識
「のれん」。
漢字で書くと「暖簾」である。
なぜ暖かいのだろうか。
簾を用いていたのなら、冷簾や涼簾といった呼び方はなかったのだろうか。
見て取れることとして、宣伝、日除け、目隠し、風除けなどの機能と、「のれん」の色にも意味があるということくらいしか知らなかった。
考えたこともなかったが、考えれば考えるほど謎が深まることもある。
今やインターネットで検索すればなんでも調べられるのだが、諸説あろうことも含め参考としていきたい。
「のれん」は禅宗とともに中国から伝わり、平安末期の書物の中にも登場しているようだ。
禅宗の語で、簾を涼簾と呼んでいるらしく、冬場の寒気を防ぐため、布を重ねた垂れ幕のようなものだったようだ。
現代でも、立て付けの悪い引き戸や襖に、百均で売ってる「すきまテープ」を貼るような感覚ではないか。
寒気を遮断すれば、まだ暖かい。
この垂れ幕を「暖簾」と書いて「のんれん」と呼び、一般化していくうちに「のうれん」、「のれん」という変化していったそうだ。
伝わった当時、都だった京都から「のれん文化」が広まっていったものともされている(諸説あり)。
もしかしたら、紫式部も外出時には「のれん」を目にしていたのだろうか。
平安時代の公家の家といえば、御簾越しの男女の出会い、吹きさらしのイメージが強く、冬場は外との境をどうしていたのだろうかとさえ思う。
「のれん」の機能としてもパワーアップしていったようだ。
伝わった頃は、日除け、雨風除け、人目除けとして、庶民の家で使用されてた。
そして、鎌倉時代になると、「のれん」に屋号や家紋の模様が描かれるようになる。
まだ識字率が高くない時代だったため、屋号や家紋が「のれん」に描かれていたという。
染め抜きの技術が、「のれん」を庶民の日常使用から、商売をアピールする宣伝物へと進化を遂げたようだ。
識字率が高まった江戸時代には、「のれん」に文字が入り、商いをする者にとっては看板のような広告媒体として使用するようになったという。
今に受け継がれている「のれん」だ。
「のれん」の色分けも、その商いによるという決まりがあった。
そういえば、時代劇でよく目にする呉服屋なんかは藍色だ。
菓子司や薬屋は、砂糖を表す白。
当時、砂糖は大変貴重なものでなかなか手に入らず、病人に与える薬として、薬屋が取り扱っていたそう。
また、「のれん」の文字色についても、赤文字は「赤字」をイメージさせ避けられていた。
それとは反対に「黒字」は縁起が良いとも。
縁起でいうと、「のれん」の割れについてもある。
巾(きんとも読む)は、奇数割れが多いそうだ。
それは、奇数は割り切れないことから、余りが出る、余裕がある、とされていた。
現在は、こういった縁起や決まりにとらわれない「のれん」。
店のイメージや間取り、個人の好きなものに合わせて作ることが出来る。
全国的にも馴染みのある「のれん」は銭湯の「湯のれん」だろうか。
また、石川県を中心に北陸には、「花嫁のれん」というものがあったそうだ。
華やかなデザインの「のれん」上部に、花嫁の実家の家紋が2つ入れられる。
婚礼の日には、嫁ぎ先の仏間に「花嫁のれん」が掛けられ、頭についた穢れを払い、ご先祖への挨拶をするという。
「花嫁のれん」をくぐると、その家の嫁になるとされていた。
立派な花嫁道具が揃えられなくても、「花嫁のれん」だけは持たせたというのにも親心が感じられる。
「花嫁のれん」は今はもう見ることがほとんどないようだ。
地域にみる「のれん」、先人からの思いが込められた伝統的な「のれん」ともたくさん出会いたい。
「のれん」写真を撮影する中で、その出会いは、京都から日本各地という空間的な横の広がりで知るとともに、時を越えて今なお鮮烈に目に飛び込んでくる作品もある。
私にとって「のれん」といえば、芹沢銈介さんだ。
その風合い、デザイン、日常生活に馴染む心地良さ。
決して特別なものとして飾られるだけの作品ではない。
文字文または文字絵、文字作品とも言われる、文字をモチーフにした作品には、その美しさに目を見張る。
いつの間にか大ファンになっていた。
私は特に、「風」の字「のれん」に魅せられた。
芹沢銈介さんの個展は日本に留まらず、1976年パリのフランス国立グラン・パレにて「Serizawa」展が開催されている。
フランス国立グラン・パレは、世界的な巨匠の大規模な展覧会が行われるギャラリーとして有名(ピカソ等)だそう。
「Serizawa」展は、日本人初で、当時存命中の作家であることも異例。
パリの街中を美しく彩る「風」の字をあしらった展覧会ポスターに、高潔な美しさを感じたパリ市民が心をゆさぶられたという。
「のれん」を入り口に、広がるアートの世界。
また、私と同じく芹沢作品に感銘を受けている方と思いを共有できることは、作品を見る楽しみが何倍にも広がっていく。
幾つになっても新しい友達が出来るのは嬉しいことだ。
今日、前祭を迎えた祇園祭。
朝9時から巡行が始まった。
祇園祭の時が、一番「のれん」に出会えるかもしれない。
コンビニにも「のれん」。
山鉾の懸装品に倣い、オシャレしているのかもしれない。
「コンコンチキチン、コンチキチン…」
山鉾巡行を祇園囃子の音色が盛り上げる。
午前中かけて、迫力満点の辻回しが披露された。
車輪を持たない仕様とされる各山は、辻回しにもひと工夫。
「これでもか!」と辻をぐるぐると、何度も何度も回る。
鉾に引けを取らじと、その町衆の熱い熱い気概を感じる。
勇壮に行く山、鉾、美麗に徹する山。
今年は9番目の「鶏鉾」の車輪の一部が外れるというトラブルが発生した。
「鶏鉾」の担い手達が応急処置している間、後続の山鉾は、協力し合い、動けない「鶏鉾」の脇を通り、巡行を続けたという。
個性豊かな美の競演、いや、現在においては今日のトラブルも含め、美の協演だと、惜しみない拍手を送りたい。
今では海外からの観客が多い。
辻回しの気迫、讃嘆の拍手が、祇園囃子とともに京の空に響く。
「祇園祭」という地上の熱気が、梅雨空の熱気を吹き飛ばすかのようだ。
祇園祭の前祭(17日)が終わる頃、京都はちょうど梅雨明けを迎えると言われている。
祇園祭とともに季節は巡る。
<参考> 公益社団法人 全日本広告連盟公式サイト 関西エリアのページ
「牛乳石鹸」公式サイト のれんの歴史
のれん専門店等の公式サイト
別冊太陽『芹沢銈介の日本』
静岡市立芹沢銈介美術館公式サイト
京都新聞公式サイト【速報】
<(c)2024 文・撮影 北山さと 無断転載禁止>
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