深夜2時55分。やらなければならないことをギリギリまで先延ばしにしては3時という朝が近づく時間帯を5分前にして意識する締切。 既視感がありすぎて焦りも沸かない。 急に思いたち文字を起こしていく。 ソファに座るというよりかは、身体を完全に預けてぼんやり目を開けたり閉じたりしている。 ほとんど何も考えていない。 起きては居るが寝ているに等しい。 やらなければ、と思うほどこのような状態になる。 意識が遠くなり宇宙まで飛んで行けてしまいそうだ。 なんて気持ちいいんだ。これが堕落…
なんてちょうどいい言葉なのだろう。 ソファに身体を預けて足を伸ばす。 時々天井を眺めては目を開いたり閉じたりして過ごす。 iPhoneで文字をおこしていると指が冷えてくる。 そろそろ起きあがりたいと思いつつ起き上がることをしない。 台所の食器を洗ってコーヒーを淹れよう。 勉強頑張ろうかな、 そう思いながら30分はアイドリングをしている。 幸せだ。 いつでも踏めるアクセルといつでも抜ける刀がある。いつでも引ける引き金を持ち、一発の弾丸を込めている。やるかやらないかはあまり大
早く梅雨あけないかなあ。 学生生活最後の夏だな〜。 出来なかった青春を今してる感じがすごいある。 勉強したり、運動したり、試験に一喜一憂したり、遅刻したり、間に合ったり。 こんなありふれたことも何もかもどうでも良かったから、本当にうれしい。 挨拶したり、されたり、しあわせだ。 テスト、いわゆるまじでやばい、というものだが、そう言えてうれしいんだ〜。 そう、今日はそんな感じ。 あと2時間後には起きて詰めるぞ〜
青菜を茹でた。 水にひたしてその瑞々しさを眺めながら味噌をとく、風が吹き抜けてカレンダーが床に落ちたのを拾い上げる。 畳の上に寝転んで何もせずに疲れたような振りをした。渋々と洗濯物を取り込む。 どこまでもおだやかな暮らしが続いていくといい。 なんの支障もなく美しい夢をみて、笑ったり怒ったりしたい。 あと8時間後には学校でテストを受けてるのか、信じられない。
布団に入りアラームをかけようとiPhoneを開く。 画面が眩しい。 光量を下げながら寝返りを打っていると 日記を書くという習慣を忘れていた事に気付く。 まだまだ習慣には及ばない作業のようである。 日記を毎日書くというのはすごいように思う。 ので 取り組んでみるわくわく感がある。 できたらすごいし、できなかったらもっとすごいという真実が残るだけ。 何かをはじめるのは最初の腰が重いだけで、はじめてしまえば大体面白い。 結果はともあれ何かしらの発見があるからなんでもやってみよう
勿論熊ではない、隈だ。 歌舞伎でいう所の隈取の部分。 何故寝不足や疲れが目の下には顕著に現れるのだろうか、医学を学ぶ中、理屈は解れども納得するに難い。 どこかしらに自分の姿がうつる度に、目を疑ってしまうくらいのドス黒いそれ。 そう、それは何度見てもやはりクマだ。 なんらかの末期がそこに集中している。 私は時折集中力がすごいので、やれると思った日はやれる範囲を超えてやり切れてしまう。 次の日に余力を残すというペース配分が何をしていても難しい。 今日はエナジードリンクとコーヒー
学校を休んでいる。11時、ラスクを齧っている。 一人で。 噛み締めている。 健康の有り難みと一人の時間を。 何もしないということが日常ではまずあり得ないので、床に臥した時にようやく休まる何かがある。 身体はきついけど。 頑張ることを諦めざるを得ない状況って、悔しいながらも少しほっとしたりする。 肉体の限界くらいが精神にとってはちょうどいいのかも。 来週には中間試験、その次は模試。 今日できることをがんばろ〜 2023.6.1
では、どうやって書くのか? それは多分簡単で、書けないことがそもそもどういう状態なのか、少しだけ考えてみるとわかる。 気がする。 一番最初に頭に浮かんだ感覚や言葉の羅列が書けることなのではないだろうか。 書きたいことなのかは分からない。 そもそも書きたいって何を? 私は小説家でもなければ、詩人でもない。 画家でもなければ国語教師やライターでもない。 では書きたいとは?書くとは?? 答えは何も書きたくないということを書きたいということ。 そこからは良くも悪くも何もないとい
怠い時間がやってきた。 日付を跨いだ0時7分。さっきまで今日だったはずの一日が急に昨日にカウントされてしまう。 落ちつかない。 人は毎日死んで生まれ変わっていると思っている節がわたしにはある。 眠っている4〜8時間の間は意識がなく気づいたら朝になっているということは当たり前のようでとてもすごいことだと思っている。 これこそ気絶やん…… しかしなんだかんだ言っても何時であろうが寝たら昨日、起きたら今日。 それ以上も以下もないんですね、わかります! 今日も終わるぞ!頼むぞ脳味噌!
朝からジムに行き風呂へ行く。 夕方になる前に子を迎えに行き、スーパーで夕飯の食材を調達する。 今日は何が食べたい?明日は晴れかな? そんな話しをしながら歩く夕方は客観的にふと眩しい。 今日はサウナの中でよく喋るマダム達と一緒だった。 いやオバチャン、といったほうがしっくりくるのかもしれない。 二人組だったのだが、1人はかっちゃんと呼ばれていた。 そのかっちゃんが喋る喋る。 はじめは鬱陶しく思っていたが、ふと話に聞き入っっている自分に気付く。 去年ご主人が亡くなった話、娘と同
ドラゴンクエストミュージアムに行きたい。 腰が痛くないクッションが欲しい、かわいいピクニックシートも捨てがたい、など暮らしを豊かにすべく脳味噌がフル回転する。 しかし皮肉なものでくつろぎややすらぎ、のような何かに向かって全力で思考する事で結果疲れてしまう。 正解のないものやことに自分だけでも納得の出来る答えが必要なとき、アップデートされない自分の脳味噌が疎ましくなる。 大体余計なことばかりなのにいつも頭は忙しい。 もはや動いていないと呼吸が出来ないマグロだ。 脳味噌はマグロ
充実している。幸せだ。 自分の中に静かな言葉が生まれる。 本当に幸せであるならば、幸せを口にすることもないないと誰かが言っていた気がするけれども、あれは何が言いたいのだろう。 幸せに本当も嘘もないと考えているからなのか、その一言が思い出された時ふとムキになってしまった。 思い出せもしない誰かの為に腹を立てる余裕があるくらいには尊厳を守る事が出来ているように思う。 何の話がしたかったんだったっけ、まあいいか
トイレをあけると人が入っていたとき、反射ですみません!と謝り扉を急いで閉めた後思う。 鍵閉めろよ!! しかし謝りを入れたことに意味が無い訳ではないと思うのだ多分。 では何に対して私は謝ったのだろうか。 恐らく人間として無防備になっていた所にお邪魔しましたという思いで謝ったのではなかろうかと思う。 これは社会生活を営んできた賜物ではなかろうか。 私が猿だとしたら多分謝っていない。 腐っても人間なのだ。 こういう小さな出来事に出会う度に自分がどうしても人間なのだと呆然
夏がまた終わる。 大好きだった場所や人や事などが色褪せ折れて曲がる。葉っぱが枝を離れていくようにそこから離れていく。 それをわびしく思ったり受け入れたりして日々を暮らす。 新しい人やもの、ことなどの中にいるとできなかったことを懐かしく思う。 目をつむって光のほうへ歩く。眩しくて遅い。 どこにも行きたくないけど落ち葉は踏みたいな
室外機の音、鈴虫の声、寝返りをうつたびに髪の毛はしゃらしゃら鳴る。息を吸って吐く。 静かな気持ちで寝る前の音を聞いている。 嬉しくもなく、悲しくもなく、こんなときにふとしあわせなのだと感じる。 風が吹いて草が揺れる様に心が凪ぐ。しあわせだ。 こんなことを文字に起こすのが好きだ。 こんな瞬間はきっといつか私を励ます。 言葉は迷ったときの為に置いていくおとぎ話のお菓子みたいだな。 ヘンゼルとグレーテル、二人はどうなったんだっけな。 .... ....(Wikipedia)
精神を凌駕出来るのは習慣という怪物だけ という言葉を三島由紀夫が残したらしい。 私の好きな言葉のひとつだ。 繰り返して身体に刻まれたことはそう簡単に消えてしまいやしない。 身体や心に良い事も悪い事もすぐには無くならない。 言ってしまえば多少脇道へ逸れるような出来事がいくつかあったとしても、それは習慣に大きく影響を及ぼしはしないだろう。 ただ、ゼロからイチの習慣をつくる時だと話しは変わってくる気がする。 絶対にやらないことを決めてそれを守ることでしかイチを作り出すことが出