書こうと思うと書けない
では、どうやって書くのか?
それは多分簡単で、書けないことがそもそもどういう状態なのか、少しだけ考えてみるとわかる。
気がする。
一番最初に頭に浮かんだ感覚や言葉の羅列が書けることなのではないだろうか。
書きたいことなのかは分からない。
そもそも書きたいって何を?
私は小説家でもなければ、詩人でもない。
画家でもなければ国語教師やライターでもない。
では書きたいとは?書くとは??
答えは何も書きたくないということを書きたいということ。
そこからは良くも悪くも何もないという結果にはならない。生きていることを文字のせいに出来る瞬間の連続、これは自分にとり大変ありがたいこと。
壁に持たれてジュースを飲んでいる時のあの壁、あれが私にとっての文字や言葉の感覚とよく似ている。
こうして文字を起こしていくと感情がザッピングする。俯瞰して関心できるなにかを探しているのかもしれない。
急に腹が立ったり、眠たくなったりする。
遠足で一番後ろを歩いたこと、勉強机にふりかけを隠していてご飯の時に選んで持っていくのがたのしみだったこと。
菖蒲の花は揺れる、川に石が落ちたことだけを思い出す。遠くから動物の糞尿の匂いがする。
飼っていたダンゴムシが動かなくなったときには頭の中でパンダウサギコアラ、パンダウサギコアラ、となんども歌った。
アーチの美しい木の橋。鞄の中で色鉛筆がかちゃかちゃ鳴る。薄く張った深緑の苔がさらさらと川になびいているのを眺めていた。
ここまで書いていると随分と遠くへやってきたよう気分になる。こういうときは落ちつかないようで、落ちついているのだと思う。
新聞配達のバイクの音が近づいてくる。
まつ毛の先に見える埃や家を揺らしている冷蔵庫の音。
自分がみたり聞いたりしているという客観的な事情が何歳になっても信じ難い。心が震えるたびに立ち止まらずには居られない。感じることが多すぎて、わかっているとされる何かがとても難しく、理解をするのに時間がかかる。毎日心は壊れそうだ。
本当によく生きていると思う。
横を向いたり上を向いたりしながらスマートフォンの中に言葉を連ねていく。
今、私は何も考えていない。
浮かんだことばだけを繋げていく。
人が居ない場所はない。一人になることも、書けないことが完成することもない。
私のかなしみにはいつだって理由がない。
いまそれがすごくわかる。
ないことしか、やっぱりないから、ある。
毎日空っぽでいたいけどそれは簡単じゃない。