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人生で大切なことはラッセルの哲学論文「ON DENOTING」からぜんぶ学んだ

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だいたい、「哲学が好き」という読書家の人は、

若い時に心からのめり込んでしまい、深く影響された哲学書

というものを人生経験として持っているのではないでしょうか?

それって、たいてい、

有名だが、哲学書にしては短めで、文章も読みやすい

ものがそういう扱いになるようで、

私が知っている限りでも、

以下の三冊あたりが、「読みやすくて、しかし、生涯が変わるほど一発で影響されてしまった」という体験談に出てきやすいラインナップかと。

だが、前の二つはともかく、

「短いのに、いやあるいは短いが故に、読んだ後にああだこうだ考えてしまって、いつのまにか『自分で哲学する』力がついてしまう本」ということでは、

ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』のインパクトは圧倒的でしょう。20世紀を代表する哲学論文のひとつとして、有名度としても申し分ない。

ところが!

世の中には、この有名なウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』よりも、さらにずっと短くて、

しかし、『論理哲学論考』に負けず劣らず、「読み終えた後に無限に哲学させられるほうに誘われる」究極の論文があります。

パートランド・ラッセルの”On Denoting”という、とても短い(しかし論理学好きには超有名な)論文です。この短さ、哲学書ですらない。短いエッセイ程度と言っていい分量。

そして何を隠そう、若き日の私ヤシロが哲学に(同時に論理学に)どハマりしたのは、この論文のせいなのです…というのも、「これくらいの短さなら、英語原文でがんばって読めるはず!」と大学の英語リーディング授業の課題対象に選んじまったのがきっかけなんですな。今から思うとなんという無謀な英文教材の選択!

しかし、短くて読みやすい、とい点では、本論文は特筆のレベルに到達してる。英文も確かに平易で、英和辞典を片手にした大学生レベルでも、案外、読めてしまったものです。

実際、ラッセルのこの論文は、その短さゆえに、インターネットでは著作権切れのPDFとしてあちこちに転がっているほどコピーされてる状況であり、たとえば以下のサイトでも英語全文が確認できますが、PDFでわずか16ページという分量です。

https://www.uvm.edu/~lderosse/courses/lang/Russell(1905).pdf

ですが、この論文を読んだことのある人、あるいは、直接読んだことがなくても「ラッセルの記述理論」というものを習ったことがある人なら、このインパクトの強力さはご存知のはず。

短くて、文体も読みやすく、内容も(直接書かれていること自体は)それほど難解ではない…しかし「え?でもよお…ここで書かれている論理学の方法って、めちゃくちゃ、いろんな哲学や論理の問題の分析に応用できるんじゃないの?!」という驚きを与えてくれること、そして、読み終えた後に「僕も私も、ラッセル先生が説明してくれた分析方法でいろんなことを『論理分析』してみよう!」というモチベーションが高まる点では、究極の哲学論文なのだw…

率直に、私の見るところ、様相論理とか可能世界論とかが出てくるまでの50年間くらいの英米哲学って、ラッセルのこの論文の「応用」で食えてる人をたくさん生み出してたと思っており。たくさんの哲学者や論理学者に仕事を生み出してあげたという点でもこの短い論文の費用対効果はハンパない筈です。

という論文なので、これにいったいどんなことが書いてあり、一見すると「論理学のテクニック紹介」にしか見えないこれが、いかに広大な可能性を秘めているかは、私は一晩でも語れるくらいだが、長くなるので今日はやめますw、別の機会に回すとして、、、

今日、言いたいことは、実は以下のこと。

私がラッセルという先人に出会って感動したのはこの「いっけんするとどんなにくだらなそうなハナシでも、いっけん『そんなこと哲学的分析なんかしなくても当たり前じゃないの?』と済まされそうなハナシでも、徹底的に論理的に証明したがる」という、「超-論理主義」の広大なロマンなのです。

一般に、「論理」というものには、どうやら誤解があるみたいで、

ラッセル流儀の論理哲学に対して、「いやいや、この宇宙のことや、世界のことや、心のことなどは、論理で説明しつくせるものではない」と否定してくる方がいます。が、これはまさに完璧主義者の誤謬。「すべてのことを論理で説明することなんてのは、原理的に不可能」ということには誰しも同意しますが、その見解と、「そうはいっても、論理で説明可能な範囲については、どこまで説明可能か、限界まで努力してみよーぜ」という態度は両立し得る。

そして、私が何よりもラッセルから学んだのは、

ガチガチの論理学を整備したところ、

「そのせいでむしろ、論理では説明できないものが見えてしまった」とか「そのせいで新しいパラドクスが出てきた」とかいったときにこそ、めちゃくちゃ喜んで楽しそうになるという、その柔軟で楽天的な「永遠の未完成主義」でしょう。実際、ラッセルって、もしかしたら自分で自分の理論をひっくり返すパラドクスを見つけるのが好きでやってる、自虐で快感を得ているタイプの方なのではと疑ってしまうことすらあるw

そういえば、結局、ラッセルのところからはウィトゲンシュタインのような弟子(どっちが弟子かわからなくなるほど偉そうな生徒だったがw)が生まれたわけだし、フレーゲやホワイトヘッドとの協働関係は有名だし、また、かのカール・ポパーとも短い間ながら議論を戦わせたこともあったりと、

ラッセルは一人で考え込むタイプではなく、弟子の面倒をみたり、アメリカやドイツに出かけて行って共同論文を試みたり、いろんなイミで絶対に相性が悪そうなポパーみたいな論争好きからの挑戦も受けて立ったりと、「いろんな人との関係の中で、議論を繰り返しながら、考える」タイプでした。

いま

世界のいろんなことを見ていて

「どんな突飛なアイデアや、極端な思想も、主張するのはOKだが『オレの考え方こそ、完成されてるもので、批判や異論は聞きたくない』って態度だけはダメよ」と私が言ってるのは、民主主義の理念とかなんとか、そんな偉そうな理由からでなく、若い時にラッセル論文に出会ったおかげかもしれません。

ラッセルのような天才ですら(いや天才だからこそ?)、五年おきくらいに、

「ごめん、、、これまでの僕の理論を根本からひっくり返すパラドクスを見つけちゃった…理論をぜんぶ見直すから時間ください!」

の繰り返しで一生を走り続けたわけですから、

いわんや、我ら凡人が組み立てる「論理」など完全性があるわけがないのだ!w

だが、哲学とか、論理学とかの、「一人で考え込むものだ」という常識がまかり通りがちな世界にこそ、

他人との意見交換や、チームワークが大事だ!

というまっとうな社会人の観点を入れてきている点に、若い時の私はとても感動したし、いま、私がラッセルに倣うべきなのも、論理分析の細かいテクニックなどではなく、その生き方のほうといえるのかもしれません。

※もっとも…↑かような、ラッセルの「いろんな人とハナシをしながら考える、外向型の哲学者」というスタイルを私は強くリスペクトしますが…弟子のウィトゲンシュタインの名論文『論理哲学論考』が出版されるにあたって「お!そんなら僕が序文を書いてやんよ」としゃしゃりでて…みごとに『論理哲学論考』の中身をちゃんと読んでないとバレバレなトンチキ序文を書いてしまうという事件を起こすあたり…私はラッセルのそんな「いささか軽薄」なキャラも好きだが、ウィトゲンシュタインのファンは、日本語版の『論理哲学論考』にもちゃんとそのまま載ってるラッセルのこの「迷序文」ゆえにラッセルに怒ってる人が多いようだ…この軽薄さについては弁護できないな…はい、ラッセル好きとしてウィトゲンシュタイン好きな人たちにこれは謝ります。この序文は、たしかに、ないわあw


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