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【中編小説】純文学:暗黒に一縷の光ありけり。#4
二〇二〇年四月一日。
大学卒業後、ここの家具屋で働き始めてから八年が経ち、おれも気づけば三十歳になった。この八年の間で、携帯の進化に伴い、SNSが全世界に著しいスピードで普及している。そんな世の中の現状をぼんやりと把握していたが、SNSにはあまり良い印象を持っていなかったので、これまであえてSNSを利用してこなかった。単純に興味がなかっただけかもしれないが――。
そのせいもあって、職場での表面的な付き合いを除けば、ほとんど独りで過ごす時間が大半だ。これは、今も昔もさほど変わっていない。
休みの日は読書をしたり、高校一年の時から始めた、アコースティックギターを弾いたりして時間を潰していた。平凡な日常の中で、暇を持て余していたのも事実である。仕事に行って、淡々と業務をこなし、帰って寝るだけの生活。休日にどこかに出かけて、リフレッシュするわけでもない。日用品や食料調達のための外出のみで休日は終わる。
ある日の休日、いつも通り部屋の掃除と洗濯を済ませて、古びた畳の部屋に横たわりながら、ある事を思い出した。数日前に、佐藤さんが「最近、SNSを始めたんだよ」と言って、何年も会っていないという息子さんの写真が投稿してある画面を満面の笑みで見せてきたのだ。
「これがうちの息子なんだけど、インスタグラムの投稿をみれば連絡を取っていなくても、元気にしてるんだなぁと思って安心するんだよ」
その話をする佐藤さんの“活力に満ちた表情”がふと頭に浮かんだのだ。
ツイッターやインスタグラムを佐藤さんはバリバリと使いこなしているようだった。時代についていっている佐藤さん。時代からかなり遅れをとっている三十歳のおれ。「これは、負けてられない……。いや、もはや勝ち負けの話ではない。これまで抱いていたSNSへの負のイメージを捨てて、一度試してみる価値はあるかもしれない」そう思いたってからの行動は意外にも早かった。決してフットワークの軽くないおれが、ここまで行動に移すなんて、自分自身驚きを隠せなかった。よほど、佐藤さんに負けたくなかったのか、それとも実は孤独に苛(さいな)まれていたのか、理由ははっきりしないが、自分の迂(う)愚(ぐ)さ加減に嫌気がさしていたのは事実だ。兎(と)にも角(かく)にも、これまでの拘(こだわ)りを捨てて真っ先に、ツイッター、インスタグラム、ティックトックをダウンロードし、少々手こずりはしたがなんとかアカウントを全て作り上げた。晴れて、SNSデビューを果たした。
さらに、これまでほとんど見る機会がなかったユーチューブも頻繁にチェックするようになった。日本の人気ユーチューバーランキングをインターネットで検索して、上位五人のチャンネル登録を無条件で済ませた。その他諸々の携帯のアプリをダウンロードしてはとにかく試してみる。そんなことを繰り返して、今の自分にとって有益となるアプリのみを厳選し、それを頻繁に利用することにした。
ある人気ユーチューバ―が「フリーフレンド」というアプリを紹介している動画を投稿していた。その動画を見終わった瞬間におれは「フリーフレンド」をダウンロードした。勢いづいているおれに一切の迷いはない。
気づけば、これまで心の奥底で拒絶していたネット社会の虜になっていき、SNSにも徐々に慣れてきた。さらにそれはエスカレートしていき、ズブズブと沼に沈んでいくかのごとくハマっていく自分がいる。完全にSNSに依存しているおれ。遅ればせながら、三十歳でSNSに目覚めてしまったのだ。しかし、これは決して悪いことでない。むしろ「少々遅れはとったが、ここにきてついに、おれも時代の流れに乗れたぞ」と、何とも言えない優越感に浸っていた。
ちょうどその頃、仕事のストレスと過労で心身ともに疲弊していた。なんとか仕事には休まず行ってはいたが、そんなの社会人として当たり前である。しかし、仕事で思うような成果も出せず、極限の状態に追い込まれていた。休みの日はぐったりと一日中横になっている。
そんな状態が数ヵ月続いたある日、おれは職場のレジの横で、遂に全身が砕けるように倒れ込んでしまった。そんな戦場で力尽きるおれの姿を橘は冷めた目で見ている。その光景がぼんやりと視界をかすめた。橘に限らず、辺りを見渡せば、周囲の目も大層冷ややかだ。視界が霞み、平衡感覚がはっきりしない。意識朦朧としたまま休憩室に自力で向かう。休憩室のパイプ椅子に座り込んだまま、しばらく状態が落ち着くのを待った。項垂(うなだ)れていること数十分、遅すぎるタイミングで店長が入ってきた。
「おい、どうした? レジのところで倒れたんだって? 大丈夫か?」
「すみません……。大丈夫です」と、気の抜けた声でおれは答えた。
「もう今日は帰って休め」と言い残し、店長はそそくさと部屋を出て行った。
そのあと、時刻は午後七時を回っており、その日は閉店時間の午後八時までの勤務予定だったが、“店長に言われたから帰る”という大義名分を得て、家路についた。アパートの自室に入ると不思議と身体が軽くなった。
それ以降、何度も“退職”という二文字が頭をよぎったが、なかなか行動に移せないまま、結局小さな家具屋にしがみついていることしかできなかった。それは、生活のためでもあるし、自分の心の奥底に眠る僅かなプライドがそうさせていたのかもしれない。
せめてもの救いは、最近、佐藤さんの影響でSNSを始めたことだ。それはイコール外部との繋がりを意味する。もうおれは独りではない――。
とにかく暇さえあればSNSを利用するようになった。ツイッターを開き、共感できるツイートをみては壊れかけた心を癒す。インスタグラムには、眩しいほどにキラキラしているリア充の写真が散乱して、まるで自分もキラキラした存在になったかのような錯覚に陥る。ティックトックを開けば、“おすすめ”に流れる投稿を機械的にスライドして眺めているだけで、おおよその世間の流行を知ることも容易にできる。
特にツイッターでは、〈もう限界。仕事辞めたい……〉〈人生詰んだんだが、どうすればいい?〉〈私ってなんのために生きてんだろ……〉〈至急! ぼっち仲間募集中〉といったネガティブなツイートに自然と“いいね”を押している自分がいる。それは仲間意識からだろうか。ネガティブなツイートをリツイートして拡散しては、「もっと、もっと共感できる人を増やしたい」という気持ちを抑えられない。制御不能状態に陥り、暇さえあればそのようなツイートを見つけて、“いいね”とリツイートを繰り返す日々。
とりわけ、おれは今や「フリーフレンド」のヘビーユーザーである。そのアプリは、ボタン一つで不特定多数の人とオンラインで瞬時に繋がり、通話ができる無料アプリだ。
何かに憑りつかれたかのごとく「フリーフレンド」のトップ画面にある「つながる」ボタンを連打し、次々と通話相手を探す。少しでも自分の意図しない声、リアクション、性別である相手と繋がったら、躊躇(ちゅうちょ)なくリセットボタンを押して無言で通話を中断する。
そんな暗黙のルールが「フリーフレンド」には存在する。稀にその中で意気投合した相手とはツイッターやインスタグラム、LINEを交換し、よりリアルに近い関係を目指す。言わば“マッチングシステム”のような感覚でユーザーはこのアプリを利用している。
友人がいない、交友関係がない、孤独な人間、すなわち“ぼっち”であるおれには最高で最適なツールと言える。
おれは、幼い頃から人とのコミュニケーションが苦手だった。そのため、現実世界で繋がりを持つリアルな友達、“リア友”がほぼいない。仮にリア友ができてもすぐに疎遠になるので、独りで過ごすことが多かった。その反動で、ネット上の友達、いわゆる“ネッ友”を「いかに多く作るか」躍起(やっき)になっていたのかもしれない。もはや、ネッ友に男女は問わない。同時進行で数十人のネッ友とSNSのメッセージでやり取りをする、それが日常的になった。
仕事に疲れ、平凡な生活に嫌気がさし始めたタイミングと、これまで封印していたSNSデビューを果たしたタイミングとが完全に一致したことで、よりSNS依存に拍車がかかった。SNSに依存することで、非日常を味わい、現実逃避をしていることは自覚している。ネッ友を腐るほど作ることで、なんとか溢れんばかりの承認欲求を満たしていた。これまで、友人一人いなかった“ぼっち”の自分が、いとも簡単に“友”を作れる、これは幸福と快楽の入り混じった感情以外なにものでもない。
現代は先の見えない暗闇を生きる時代なのかもしれない――。そんな時代を生き抜く現代人にとって、SNSは時に偉大な力を発揮するツールと言える。もちろん、大半のユーザーは数多(あまた)のリスクがあることは認識している。SNSは、今、おれがこの世に生きている意義を証明してくれるツールとなり得ると言っても過言ではない。それほどまでに、SNSの世界にどっぷりと浸かり、それに縋(すが)っている自分がいた。
#5へ続く