Ⅱ章 彼女の場合-終-
「お待たせ。はい、お弁当」
「ありがとう。母さん。よく間に合ったね」
「試合会場が隣の県でほんと良かったわ。試合に集中するのはいいけど、母親の弁当忘れるかね、普通」
ごめん、と申し訳なさそうに手を合わせて謝る我が子に弁当を渡して、私は会場に隣接する広場のベンチに腰掛けた。
あの日。そう、亮二が死んだあの日。私はふたつの選択を迫られた。
宿った生命を育てるべきか、それとも堕ろすべきか――――。
彼の訃報を聴いた直後だった。明らかに動揺していた。
果たして私の判断が正しかったのか。それは今も分からない。
ただ、我が子は誰に似たのか、努力を惜しまない誠実な子に育っている。
あの日、私は我が子を育てる道を選んだ。
「今日の相手は強いの?」
「もちろん強いよ。強豪の由比ヶ浜だからね」
「……そう。勝てそう?」
「うーん。どうかな。予選の動画を見たけど、ウチと良い勝負だと思うよ」
「そっか。じゃあ簡単じゃないね」
「なんていったってインハイの本戦だからね。……面白い試合になると思うよ。楽しみにしてて」
自身満々に言い切った息子の笑顔は柔らかかった。
面白い試合か。そんな言葉は、私たちの頃にはなかったな……。
息子は、艶のある白地に黒い文字で「白仙学院」と入ったジャージを着て微笑んでいる。一般入試で入って、3年目。やっとレギュラーになれた。
働きながら家事をする私を気遣って、いつも家事を手伝ってくれた。
我ながら、凄い子だと思う。
「そういえば、鉄仮面の得意技は教えて貰ったの?」
「あぁ、白木監督の?うん、教えて貰ったよ。でも、本戦でやれる勇気はないかな。やっぱり凄い人だよ。っていうか、鉄仮面って言うの辞めなよ。会社の上司なんじゃないの?」
一応ね、と言って受け流した。
白木次長は、色々あって働きながら母校の顧問を引き受けた。
昨今の波に乗り、ウチの会社にも「働き方改革」の風潮が到来した。
その中にあって「名門校の監督をしながら働く社員」は、会社にとって良い広告塔になった。
その分、私の仕事の負担が多くなり、今では課長になってしまった。
文句のひとつも言いたいところだが、私自身も子育ての時に会社には色々して貰ったのでなかなか言いづらい。
「まぁ、良いけどさ。――――じゃあ、行ってくるね」
「うん。悔いがないように全力でやりなよ。応援してるよ。『亮二』」
会場に向かっていく彼の背中を眺める。
彼が産まれて17年。出生の詳細を言えなかったことから、一時は実家と険悪になった。最終的には協力してくれ、会社や市の子育て支援などを受けて、なんとか今日まで生きてこれた。
私は幸運な方だと思う。
私のような境遇の人間より、そうでない人の方が圧倒的に多いのだから。
「横、いいかな?」
こちらの返事も待たずに男が座った。
白髪混じりで年齢の割には老けた顔つきをしていた。
体型が昔と変わらないところを見ると、健康に気を使っているのだろう。
「舞衣、久しぶり」
「久しぶり、ハル。随分と老けたわね」
「色々あったから。そっちも……」と言いかけて、彼はやめた。
「由比ヶ浜強くなったんだね。青応に勝ったんでしょ?おめでとう」
「ありがとう。俺が監督になった後はよく戦ってるよ。今じゃもう立派な神奈川の強豪校になった。ところで青応の監督って誰だと思う?」
「誰って……嶋先生の教え子だったあの人じゃないの?」
「今は水澤なんだよ。俺らが負けたときのキャプテン。笑えるだろ?……俺らはもうそんな歳になったみたいだ」
「そっか。なんだか切ないわね。っていうか、久しぶり聴いたわ。アンタの「俺」呼び。部長になったときに封印したじゃない」
「部長じゃなくなってから徐々に戻していったんだ。今になってみれば、いい練習になったと思ってるよ」
「というと?」
「人ってさ。状況や役目によって演じなきゃいけないだろ?職場だったら「私」とかさ。部長なら部長の振る舞いだったり、判断をしなきゃいけない。そういう意味での練習だよ」
「相変わらず真面目ね」
「舞衣だって真面目にやってきたんだろ?働きながら子育てしてさ。半端な気持ちでやれることじゃないよ」
「色んな人に助けて貰ったから。そのおかげで生きてこれたのよ。私だけの努力じゃないわ。それにあの子がしっかりしてるから。随分と助けられたわ。帰宅したら夕飯用意してくれてたりね……」
いい子だね、と言ってから少し間をおいて、彼は本題を口にした。
「……あの子の父親は?」
「亮二よ。他の人ともセックスしたけど、そういう事はアイツだけだった」
そっか…….。そう答えて、彼は一度目を瞑った。
「お互いよく育てたな。ウチも妻が亡くなってからは大変だった」
「鮮花さんの件は残念だったわね……」
わかってたことだから、そう言いながら、彼は息を吐いた。
「その時が来るのが早いか、遅いかの違いだったんだよ。それは皆同じことでさ。生きるってことは、同時に死に近づいていくことなんだと思った」
私はバッグから煙草を取って火を点けた。深く吸い込む。彼のように。
煙を灰に留めて、ゆっくりと吐きながら、ハルの歩んだ道に耳を傾けた。
「俺と結婚して、生活して、子供もふたり出来て。病気の事を考えたら……。鮮花は充分生きたよ。精いっぱい。そりゃ悔いもあったと思う。子供の成長とか老後とかね。――――でも命には、どうしても限りがある。そればかりはどうしようもない。きっと――――」
「きっと俺たちは、その時が来るまでに、どれだけ自分が納得する選択を重ねていけるかなんじゃないかな」
上を向いて煙を吐いた。風に乗せて流れていくそれを観ながら、考える。
「そうかもね……。正直、あの子を身籠ったときは焦ったわ。今でもこの選択が正しかったのか不安になるときがあるの。――――それでも家に帰るとさ。あの子がいるのよ。呑気な顔でおかえりーって。……歪な関係で生まれた我が子がさ。笑って迎えてくれるのよ」
久しぶりに会った嬉しさだろうか。それとも生きる事への共感か。
私は、自分が蓋をしていた感情が開いた感覚がした。
「彼に愛されなかった私がさ。他人の愛を汚してきた私がさ……。『亮二』の笑顔を見ると思うのよ。――――私には、この生き方しかなかった。でも、この生き方で良かったんだって。彼に愛されなくても、私にはあの子がいる。だから精いっぱい生きていけたってさ」
良かったね、と彼は言った。
「それで良かったんだと思う。他の誰が何と言おうと。それが舞衣の愛情のカタチなんだろう。久しぶりに話が出来て安心した」
じゃあ、と言いながら彼は立ち上がった。
「また今度話そう。これから試合だから」
「うん。まぁ、せいぜい頑張って」
「そうさせてもらうよ」
笑って、その場を後にするハルを見送る。
――――愛のカタチか。
彼が死んでから。『彼』が産まれてから。
私は最初、産まれたばかりの『彼』の中に父親の面影を探していた。
笑ったときの顔、泣いたときの顔、拗ねた顔、寝ている顔。
その表情のどこかに彼を見つけては、安堵した。
取り残されたわけでないのだと思いたかった。
その一瞬のために、私は仕事も家事も頑張ることが出来た。
次第に『彼』が成長するにつれて、彼の断片は小さくなっていった。
最初に思ったのは、怖さだった。置いて行かれる怖さ。彼を失う怖さ。
私は本当に一人になるのか、という怖さだった。
でも次に想ったのは、『彼』が私と彼の息子だということだった。
『彼』は、『彼』であって彼ではない。私の息子であって別人だ。
私が一緒に生きてきた、愛情を注いできた笑顔は『彼』にしかないモノになっていた。
私は、無償の愛なんてものはないと思う。
子供に対する愛は、なんていうけれど、それこそ綺麗ごとだ。
親が子供に注ぐ愛は、やはり有償で、それが学歴の場合もあれば、スポーツの成績や就職先として芽吹くことを期待しているのだ。ーーーー私の親のように。
仮にそうでなかったとしても、親は見返りを求めている。
原初的な愛情の見返り。即ち、子供の健康と幸福を。
だから無償の愛なんてない。
私は、『亮二』の笑顔が好きだ。
その笑顔こそが、私の報酬だったと言っていい。
私は、かつて自分が底の抜けた愛情の器――「器だったもの」――だと思った。
その気持ちは今も変わらない。彼以外の人間から与えられた愛情に満足出来ず、幸福に包まれた恋人達の幸せをつまみ食いしてきたのだから。
ただ今は、そんな私でも息子に愛情注ぐ「何か」になれた気がする。
私は、自分の理想――亮二との夢――を歪にも歩いてきた。
けれど、時が経つにつれ、息子が大きくなるにつれ、気付いたときには、「彼の断片」を探すことは無くなっていた。
これはもう亮二との物語ではない。
私はもう『亮二』との物語を歩んでいる。
煙草を吸い終わると、自然と空を見上げた。
陽が高くなってきたせいか、次第に蝉の音が大きくなっている気がする。
もう行けと、まるで急かされているように感じた。
あぁ、ここなのかと思った。決別の時は今だったのか。
――――なら、覚悟を決めよう。
私は立ち上がって、まだ数本残っていた煙草をゴミ箱へ捨てた。
この銘柄の煙草を買うことはもうないだろう。
そう思いながら、私は木々の隙間から陽が差し込む道を歩き出した。
――――『彼』のいる場所へ。
――――じゃあね、亮二。今までありがとう。
『give it back』by Cö shu Nie
暖かい 涙で ふいに目覚めた
焦がれた 夢の続きは 何処にあるの
寂しいよ
Please, give it back
いつになれば楽になれる
押しては返す波に抗って
白い枕に 寝惚けたままの顔を 埋めて
同じ夢を 願うほどに 冴えていくよ
Please, give it back
代わりなんていないよ
あなたの匂い 思い出せない 波に攫われて
夢の続きを 捕まえにいくから 待ってて
いつの間にか 孤独ぶるには 優しさに触れすぎた
沁みてく 顔上げてみようか
ひとりじゃないって 信じてみたい
信じてみたいの
give it a shot
生まれたばかりの淡い光に
希望を見たの 胸が熱いよ
手を握っていよう
迷わないように 明日からまた
選んだ道を進めるように
『give it back』公式より引用
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