冒険を終えてから考える「堕落論」
1947年、戦争の記憶も新しいこの年、戦後の混沌とした世相に鉄槌を与えるが如く出された一冊の本がある。
当時、日本は敗戦という歴史的事象を飲み込み、過去英雄として戦争を生き延びた人間が闇市に堕ち、帰らぬ軍人を待ち続けた貞操ある妻は新しい男を迎え、日本帝国という神話は跡形も無く崩れ去った。
戦時中の美的な哲学は、ほんの少しの時間によって簡単に引っ剥がされたのだった。
そうした世間の大きな変容に「堕落」という言葉を巧みに使い、人はどう生きるべきなのかを指南した本が
坂口安吾の「堕落論」である。
周囲の環境が劇的な変化を帯びて行く中、人々はその中でどう生きれば良いか。それを思案した。
昨今、どう生きる系の図書が多く読まれているが、だいたいは海外の作家であり広く普遍的な事であるのに間違いは無いものの、堕落論は戦争を経験した日本人が生み出した一つの哲学書であるから、日本人が読んでこその本だと思う。
出版から70年以上経った現代においても、彼の本は新訳や超訳が出たりと、時代を超えて人々を指南するが、様々な指南書の中でも劇薬の位置づけにある。
劇薬の意味は、学生運動が勃発した1960年代当時、安保闘争や全共闘に参加した過激派の学生の間でカルト的な人気を誇っていたからである。
堕落の方法が反社会的活動にも大きな煽りを加える為に、本人の解釈によっては劇薬となる。
そんな堕落論。
その解釈に挑む。
生きてる意味って何?
とまるで答えの無い質問のように思えるかもしれないが、日本に生まれた時点で対外的に生きる意味は提示されている。
教育・勤労・納税の義務である。
冷たい様に聞こえるかもしれないが、あなたは生まれた瞬間に「日本で生きる場合は働いてお金を納めて下さい!」という、義務が暗黙に課せられている。
(広い意味で)生きる意味はそもそも、偶然的に生まれたその国家の法律や宗教、慣習によって左右される。
宗教国家の元に生まれれば神に遣えて命を全うするだろうし、国家としての法律が全く及ばない原始の森の中では狩りと生殖行為による繁栄こそが全てになるだろう。
また自由を掲げる国に広く流布された国民の義務と言う矛盾した拘束行為の中で生命を終える事もあるだろう。
大きなベースとして、納税は生きる国民の義務であり、その義務を課せられた人生を全うする事を、ほとんどの人は避けて通れない。現実、それが国家であり、国民としての生き方であり、大多数が送る人生である。
さて、ここで堕落論が持ち出される。
間違えてならないのは堕落の意味であるから、作者が言わんとするその説明を先にする。
堕落とは、社会から暗黙に提示された、大多数が歩く正道から、堕ちるという行為である。
学校から、会社から、自然に発生したコミュティの中から、はがれ堕ちる行為こそが堕落である。
社会システムの中で生み出された様々な固定観念から逸脱し、一人の人間として、生身の人間として生きてみる。
誰かに指示され、動かされ、時代に帯同する大きな価値観を安易に迎合しては、生身で生きる事が難しくなる。
ここはアドラーとも繋がってくる話なのだが、自由な社会に生きているはずなのに、自由に生きる事が出来ない人が多いのは、個人が人生の中で行う無数の選択が、無意識の内に自由ではない選択をしているからである。
どうしてそんな選択をしてしまうかと言えば、社会が生み出した見えないルールがいつの間にか体に染み込んで「本当はこっちがいい!」という声が、聞こえるはずの無い社会の「それはだめでしょう!」という観念に押しつぶされているからだ。
自由の矛盾がそこにある。
だからこそ、堕落する。
坂口安吾は言う。
「堕落すべき時には、まっとうに、真っ逆さまに堕ちねばならぬ」
中途半端な堕落は、否定的な堕落に集約される。
まっとうな堕落は、肯定的な堕落に集約される。
言葉を簡単にすれば、自然に堕ちて行くのではなく、意識的に堕ちて行く。
意識して堕ちる事は、それはとてもエネルギーを使う行為であり、周囲との乖離を避けては通れないし、他者との距離も自然発生する。
それすらも意識する。
目を背けてはならない。
目を背けた堕落は、逃げである。
それまで身に付いた固定観念を剥がす行為は並大抵のエネルギーではなし得ないからこそ、意識する。
無意識で固定観念は引き剝がせない。
堕落は、怠ける事ではない。
真っ向から社会と向き合う行為である。
堕落から見える様々な虚構と現実
極論的な「社会より堕落しろ」的な意見は、往々にして誰もが出来る事ではないが、私は意図せずに堕落していた。
それは確かに相当なエネルギーを要する事であり、また他者との乖離を酷く感じた。
テレビのニュースを見ていても、SNSに流れるフィードを見ても、様々な矛盾が脳裏を過る。
堕落を経験しなければ、どうにも固定観念の皮は捲れないが、それは一種、知識の呪いをかけられる行為でもある。
時に、生まれた子供を学校に通わせずに自分たちの手で育てる方法がある。日本ではそれを虐待と言うが、パプアニューギニアの森の中では虐待でもなんでもなく目下日常の常識である。
一人の女性と結婚する事が法律で決められている日本では重婚は罪であるが、イスラームの一部中東の地では複数の女性を娶る事は法律が認めている。
死刑制度が存在する日本ではテレビの放送で犯人の死刑を臨むと放送できるが、西洋では死刑制度が存在せず囚人にも人権が存在すると懲役による社会復帰を押し進めている。
固定された観念は、実は一種の虚構に過ぎないし、たまたま生まれた国の社会システムが、気付かぬうちに身に染み込んでしまっているだけのことである。
しかし、あらゆる固定観念を引っ剥がす事は、あらゆるダブルスタンダードを容認しなくてはならない事でもある。
それが呪い的な側面だ。
日常のノイズが日々大きくなる。
大きな話で言うと、正式名称「朝鮮民主主義人民共和国」、通称北朝鮮は民主主義ではない。しかし、その国の国民は民主主義だと思って生きているから、国名の民主主義は剥がれない。
日本の話で言えば、自衛隊は法律で海外での戦闘を禁止されているが、イラクやシリアなどの戦闘地域に赴けばそこは法律上非戦闘地域となる。
また、個人で銃を持つと銃刀法違反になり、それが正当防衛であっても刑罰の対象に当たる。国民に対しては性悪説に基づき銃規制を行うが、国家に対しては性善説を元に銃の所持を認める。日本はある側面において、銃社会であるという見方もできる。
矛盾と詭弁に成り立つ社会の上にいる事が見えてくる。
そうしたノイズが、日常の隙間に入り込んでくる。
堕落は楽じゃない。
整合性を取ろうと思えば、口から出てくるのは社会への愚痴になってしまう。
坂口安吾はそういした矛盾や社会悪と戦い、遂には覚せい剤に溺れ、睡眠薬も大量に服用する様になった。
そして、1955年脳出血により逝去。
享年48歳であった。
余談
自由に生きる為に、どうすればいいかを考えるには、その暗黙のルールの外側に行かなくてはと、私は経済の外側に行った。
でも、それは結果として間違った解釈だった。
経済の外側に行っても、堕ちる事はできなかった。
そもそも、自分の想像する自由は、経済の外側には無かったからだ。
経済の内側にこそ、自分の思う自由はある。
矛盾して聞こえるかもしれないが、これこそが私が現に辿り着いた、一つの正解かもしれない答えであった。
私もまた、ダブルスタンダードを抱えている。
堕落は、ずっと出来る事ではない。
それは作者である坂口安吾も呈しており、堕落は上昇志向と紙一重の論である。
私は、坂口の言う真っ逆さまに堕ちる事は無かった。
正確には、正しく堕ち事ができなかった。
荒野を一人歩く様に、と坂口は表現していたが、まさしく、荒野である。
道は長い。