松山 猛(まつやま たけし)

1946年京都生まれ。作家、作詞家、編集者、時計ジャーナリスト。 ※松山猛さんの魅力を多くの方に知って頂きたく始めたnoteアカウントです。 松山さんが書き下ろした文章を管理人・金井緑がUPしています。 フォロワー増やしたいので@相互フォロー(希望)

松山 猛(まつやま たけし)

1946年京都生まれ。作家、作詞家、編集者、時計ジャーナリスト。 ※松山猛さんの魅力を多くの方に知って頂きたく始めたnoteアカウントです。 松山さんが書き下ろした文章を管理人・金井緑がUPしています。 フォロワー増やしたいので@相互フォロー(希望)

最近の記事

お洒落小僧の頃

 僕が着ることの楽しみに目覚めたのは中学生の頃、8歳違いの姉が初めての給料で家族全員に様々なものを買ってくれた時からだ。  姉は僕に、その当時流行していたバティック風プリントのボタンダウンシャツと、茶色いスエードのペニーローファー・シューズをプレゼントしてくれたのだった。  バティック風のプリント地というのは、線描でヨーロッパ風の街並や人間、そして犬などが描かれた生地で、今思い出してもなかなかお洒落なものだったように思う。  それを着て学校に行くのは誇らしかったし、お洒落をす

    • 父の形見

       僕はあまり父親が残したものを持っていない。手元に残っているものといえば一対のカフスボタンと、角帯が一本。  父の形見がほとんどないのは、父が亡くなり葬式を出したときに、たくさんの親戚の人々が参列してくれた帰り際に、様々な父の持ち物を形見分けといって持ち帰ってしまったからだ。  昭和の30年代というのは、まだまだ戦後の名残の時代で、今日のように物があふれている時代ではなかったので、多くの人が形見分けを、よろこんでもらっていったからに違いないと今は思う。  出張旅行を繰り返し

      • 古着の楽しみ③着物を愛でる。

         初めて沖縄に出かけたのは、1980年代初めの文藝春秋社の雑誌『くりま』の取材の時だった。その取材は主に沖縄の食に関するものだったが、自由時間を得た時には、様々な工芸品などを見つける、ショッピングサファリの時間にあてたものだった。  牧志の公設市場の一画に、たくさんの着物を売っているおばあ達の店が並んでいて、まずは着物好きの家内のために久米島紬の着物を買い、さて自分用のものは何かないかと探していたら、いかにも南国風のごつごつとした手触りの布で縫われた、男物の着物を一枚見つけて

        • 古着②

           10代の頃に洗礼を受けたアイビー・ファッションの、冬の定番といえば、アルバイトでためたお金で手に入れた、ピーコートもあったが、なんといっても思い出に残っているのはシエットランドのセーターやカーディガンだ。  スコットランドの沖に点在する、シエットランド諸島で飼われている羊たちは、自らをその寒冷な気候から守るために、とても暖かい羊毛で体を包むというのだ。  それはモンゴル高原のヤクや、カシミア山羊と通じるもので、古くからその保温力の素晴らしさを、イギリス人は熟知していたようだ

          古着の楽しみ

           若い人たちの間で今、古着の人気が相当に高まっているようで、若者に人気のエリアにはたくさんの古着の店が並んでいる。  バブル景気の時代には、ヴィンテージものと呼ばれるリーバイスのジーンズなどが、驚くような高価格でも買う人がいて驚いたが、昨今の古着ブームはまたあの時代とは異なる、時代の要素が反映されているのではないかと僕は考えている。  それは新しいブランド物の洋服が、あまりにも高価になりすぎ、多くの若者には縁のない世界となったという事や、安価なファストファッションだけでは『着

          江戸風情

           もちろん僕は江戸時代を知っているわけではないのだが、その古い時代のさぞかし美しかったのであろう風俗や暮らしの、残り香のようなものを若い時代から探し続けていたように思う。  東京に移住した1970年頃は、そのような残り香を求めてよく浅草界隈を訪ね歩いたものだった。  母に縫ってもらった久留米絣の着物に、紺色の剣道袴、そして蛇の目傘に高下駄といういでたちで歩いている僕は、はるかな昔からタイムスリップしてきた青年のように見えていたかもしれない。  浅草にはその頃、まだまだ江戸

          『イムジン河』を救ってくれた友

           ザ・フォーク・クルセダーズのシングル盤第二弾として準備が進んでいた『イムジン河』が、様々な事情によって発売が突如中止されてしまった。  まだその頃京都の実家住まいだった僕が、そのニュースを知ったのは、母と見ていた当時人気の“11PM”というテレビ番組でのことだった  司会者の大橋巨泉氏が、発売中止のことを告げ、母と僕は顔を見合わせて、大変ことになったねと落胆したのだった。  北朝鮮の新しい民謡のようなものと解釈していたのだが、その歌は1950年代に、有名な作詞者と作曲家が、

          『イムジン河』を救ってくれた友

          二人のアグネス

           アグネス・チャンの二枚目のシングル盤のために『妖精の詩』の作詞をしたのは、確か1973年のことだった。  香港からやってきたあどけなさの残る若き歌姫と、そのお姉さんと打ち合わせをした日、僕は膝の抜けたリーバイスの501を履いていて、彼女たちはなんて小汚い作詞家だと思ったに違いない。  当時はまだダメージジーンズなど流行のアイテムではなく。僕は新しいバンカラスタイルだと自負していたのだった。  そんな僕が描いたのは、さわやかな恋の予感を感じさせるリリックだった。 風の吹く草

          フィルムに刻まれた思い出

          フィルムカメラの時代に撮影したポジ・フィルムや、モノクロームのフィルムがたくさん残っている。  以前にも何本かの重要だと思われるフィルムを、“フィルムスキャナー”という道具を使って、デジタル画像化をしたことがあったが、今回は有り余る時間ができたので、もう一台高性能だと思われるスキャナーを手に入れて、徹底的にフィルム画像をデジタル画像化しようと思いたったのだった。  それもこれも100年に一度という疫病蔓延のせいで、毎年出かけていたスイスへの時計取材や、アメリカの家族との休暇な

          フィルムに刻まれた思い出

          『香港の未来』

           初めて香港へ旅行したのはもうずいぶん昔のことで、おぼろげな記憶をたどると、おそらく1980年くらいのことだから、今から40年も前の事になると思う。  東洋の真珠とたとえられた当時の香港は、まさに自由貿易港として、またアジアの金融都市として発展していたうえに、長らく英国の租借地としての歴史を刻んだ建物などもあり、特に香港島などはそのエキゾティックさが魅力だったものだ。  その時代の香港への空の旅の着陸はスリル満点なもので、ビルが林立する香港市街をかすめながら啓徳空港に降りてい

          腕時計の最新事情

           最近の時計に関する話題で、僕がもっとも驚いたのは、ジュネーブで開催された時計オークションで、パテック・フィリップ社によって1940年代に作られた、ステンレス・スティールのシンプルな時計が、日本円に換算すると、なんと3億円以上という高値を付けて落札されたことだった。  確かにその時計は、作られたばかりのような、素晴らしいコンディションを保つたままの見事な逸品であり、ゴールドやプラチナ製のケースのものよりレアな、製造本数の少ないスティール製ケースを纏っているのは理解できるが、い

          『白い馬』

           僕の小学生時代には学校の講堂で、いろいろと素晴らしい映画を見せてくれたものだった。 中でも印象に残る映画が、アルベール・ラモリス監督による、1953年の映画『白い馬』である。 南フランスの地中海沿いの、大湿地帯カマルグは、大自然が今も残されており、そこには野生の馬が生息している。 映画ではその野生の白い馬と少年の友情が描かれるのだが、その馬を手に入れようとする大人たちがいて、馬と少年は追い詰められ、地中海のかなたに消えてしまうといった物語だったと記憶する。  その抒情的な

          巴里のあちこちを歩く

           パリという町の魅力を、アーネスト・ヘミングウエイは『移動祝祭日』などに鮮やかに描いている。  僕もその町に魅いられ、度々訪れるようになるのだが、ある時様々なスタイルでその町の魅力を知り尽くしたいと思い、ある時は庶民目線のアプローチをし、またある時はちょっと裕福な人というスタイルでも、パリ滞在を楽しもうと試みたのだった。  すると同じ町でありながらも、様々な断面があり、感じることも異なってくるということが解り、よりパリという町の素晴らしさが感じ取れることを実感したのだ。  

          巴里のあちこちを歩く

          『妖精の詩』のころ。

           1973年は僕にとって、楽しく素晴らしい年となった。それはその年の4月10日に発売された、アグネス・チャンの『妖精の詩』がヒットしたからだった。  香港から来日した彼女が、最初にヒットさせたのは安井かずみさん作詞の『ひなげしの花』で、僕は二枚目のシングル盤のための詞を、作曲の加藤和彦君とともに指名されたのだった。  打ち合わせに行くと可憐なアグネスと、きれいな顔立ちのお姉さんのアイリーンがいた。  その日の僕は膝の抜けたリーバイスのジーンズを履いていたから、なんと汚らしい奴

          『妖精の詩』のころ。

          あこがれの異国へ

           東京に移住すると新しい友人とのお付き合いが始まった。その一人がイラストレーターの矢吹申彦さんだ。  彼の家に遊びに行くと、よく奥さんのテコさんと一緒に、おいしいパスタなどを作ってごちそうしてくださった。  そんなある日、「今、渋谷の東急本店から面白い話があって、ガラクタ市催事のための物集めに、外国に行くということらしいけれど、松山くんもいっしょにいこうよ」と、思いがけない話になった。  そんな素敵な話があるなんてと思いながら、ある日打ち合わせに行くと、僕も参加できるというこ

          西麻布は大人の街

           1970年代の西麻布界隈には、原宿とはまた異なる大人っぽい店が多くあり、そこへやってくる人たちもまた、その時代の東京文化を体現している人が多かったものだ。  僕が良く通ったのは『茶蘭花』という店で、そこは“全学連”ならぬ“全ブス連”を名乗る、素敵な女性たちが営む店。  そのメンバーはスタイリストの堀切ミロさん、デザイナーの川村都さん、そして女優の麻生レミさん達。  そこへ顔を出すようになったきっかけは、やはり加藤和彦だったと思うのだが、ずいぶん昔のことで、はっきりしない。