あこがれの異国へ
東京に移住すると新しい友人とのお付き合いが始まった。その一人がイラストレーターの矢吹申彦さんだ。
彼の家に遊びに行くと、よく奥さんのテコさんと一緒に、おいしいパスタなどを作ってごちそうしてくださった。
そんなある日、「今、渋谷の東急本店から面白い話があって、ガラクタ市催事のための物集めに、外国に行くということらしいけれど、松山くんもいっしょにいこうよ」と、思いがけない話になった。
そんな素敵な話があるなんてと思いながら、ある日打ち合わせに行くと、僕も参加できるということになっていたのだった。
インドに一週間、レバノンに一週間、そしてポルトガルに一週間、最終目的地のロンドンにも一週間滞在しながら、催事用のもの集めをするという話であり、矢吹さんや僕などが選ばれたのは、普通のバイヤーとは異なる視点で、面白いものを見つけ出せるのではないか、という期待があったようだ。僕らのほかには坂崎さんという、当時は渋谷区の公園設計などをしていた人で、あとで知ったがアルフィーの坂崎幸之助さんの叔父さんにあたる人や、今は大学の教授をされている涌井雅之さん。当時彼は東急系列の石勝エクステリアという造園の会社を作った人。
ひと月に及ぶ買い出し珍道中は、楽しいこと満載の日々で、様々な文化や人々の暮らしぶりに触れる、素晴らしいチャンスとなった。
そしてその経験が後々編集者として雑誌作りをするのに大きな影響をもたらしてくれたのである。
だから矢吹さんこそは、僕の人生が変わる一つの大きなきっかけを作ってくれた大恩人なのだ。
ロンドンは音楽やファッション好きの、若者文化の宝庫であり、そこで受けた刺激は大変なものだった。そして僕もすっかりロンドンポップなファッションになって帰国したのだった。
1960年代の僕にとっては、夢のまた夢のような海外旅行が、1970年代になったとたんに現実のものとなったわけだ。
ロンドンに行くことを、当時東芝音工の社員だった石坂敬一さんに伝えると、素敵な人を紹介するよと、ブラックヒル・エンタープライズのピーター・ジェナーさんに、紹介状を書いてくださった。
この人は初期のピンク・フロイドやT-レックスにも関わったプロデューサーであり、僕が訪ねて行ったときは、ロイ・ハーパーやイアン・デューリー、日本人女性二人組のフランク・チキンなどをてがけていて、いわゆるプログレッシブ・ロックというジャンルを切り開いた第一人者だ。
ピーターさんの奥さんのスミさんは日系カナダ人で、日本語が話せたから、英語がそんなに得意ではなかった僕だったが、彼女を通じてピーターさんやロイ・ハーパーさんと、深い話ができたのだった。
ロイ・ハーパーという人は、レッド・ツエッペリンが『ロイ・ハーパーに脱帽』という曲をささげるほどの詩人にしてソングライターだが、僕には気さくに付き合ってくれ、彼が大フアンというフットボール・チームのチェルシーの試合を一緒に見に行ったこともある。
彼に誰の詩が好きですかと聞いたら、やはりワーズワースだろうねと答えたのが印象的だった。
また彼が愛用していたゼマイティスのギターが素晴らしいもので、後のブルータスの取材でロンドンに行ったとき、ゼマイティスさんにインタヴューをしに行ったものだった。
思えば英国発の音楽、ファッション、ライフスタイルに夢中になり、それからも繰り返しロンドンには出かけるようになったのである。