『イムジン河』を救ってくれた友
ザ・フォーク・クルセダーズのシングル盤第二弾として準備が進んでいた『イムジン河』が、様々な事情によって発売が突如中止されてしまった。
まだその頃京都の実家住まいだった僕が、そのニュースを知ったのは、母と見ていた当時人気の“11PM”というテレビ番組でのことだった
司会者の大橋巨泉氏が、発売中止のことを告げ、母と僕は顔を見合わせて、大変ことになったねと落胆したのだった。
北朝鮮の新しい民謡のようなものと解釈していたのだが、その歌は1950年代に、有名な作詞者と作曲家が、プロパガンダの歌として創作したものだと後に知ることになった。
空前の大ヒットとなった『帰ってきたヨッパライ』の第二弾シングルをと考えた発売元の東芝音工が、もう少し慎重に事を進めていてくれたらとも思ったのだが、時すでに遅しであった。
その後のことになるが、この歌を僕が盗作したとまで言われたことがあって、残念で辛い思いもしたが、時の流れとともに、その悔しさもいつしか、心の中から流れ去っていった。
それから約四半世紀の時が流れたある日、思いがけない電話がかかってきたのだ、
電話の主はソニーミュージック系のソイッツアーミュージックというレーベルの、ディレクターをしている会田晃さんという人で、『イムジン河』について相談したいことがあるということだった。
そこでさっそくお会いして話を伺うと、彼は日韓共催のサッカー・ワールドカップに向けた、それにふさわしい音楽を探しに、ソウルまで出かけたのだそうだ。
「いろいろと良い音楽をと捜し歩いたんですが、なかなかピンとくるものがなく、どうしたものかと考えながら、インディーなCDなどを扱っている店に行ったとき、若い店員さんが、僕日本語の歌を知っていますよ、といって唄い出したのがなんと『イムジン河』だったのですよ。ああこの歌があったんだと気づいて、さっそく帰国後に松山さんに電話をしたんです」という話だった。
この歌を眠らしておいてはいけないと彼は力説し、この歌を若い世代に引き継いでもらおうと、新しくレコーディングする計画が持ち上がり、僕の息子とその友人がアレンジをし、会田さんが探し出したキム・チャンス君という美しい声の持ち主が歌いあげ、『イムジン河』が再生の日を迎えたのだった。
プロデューサーとして参加した僕は、朝鮮の打楽器『長皷』の印象的なリズムを加えてもらったのだった。
このCDが発売されても、もう誰も文句を言う人や団体はいなかった。時代はいつしか変化をしていたのだ。
この試みに刺激され、フォークルのオリジナル版もが再発売されることになったのは素晴らしい出来事だった。加藤和彦君にとっても、北山修君にとっても、封印されてしまったその歌への、やりきれない思いはあったのだろうと思った。
そして会田さんはさらに努力をしてくれて、それまで認められていなかったJASRACへの著作権登録の道を開いてくれたのだった。
会田さんという人がいなかったら、あの歌は今もなお日陰に追いやられていたままだったかも知れない。
そしてその歌の恩人である会田さんは、その後若くしてこの世を去ってしまわれたのだった。彼とはもっともっと一緒に、何かをやり遂げたかったのに残念でたまらない。
しかし彼の一人娘の会田莉凡さんが、音楽への夢を受け継ぎ、素晴らしいバイオリニストに成長し、今では京都交響楽団のコンサート・ミストレスとして活躍されている事を聞いて、僕は嬉しい気持ちになったのだった。