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巴里のあちこちを歩く

 パリという町の魅力を、アーネスト・ヘミングウエイは『移動祝祭日』などに鮮やかに描いている。
 僕もその町に魅いられ、度々訪れるようになるのだが、ある時様々なスタイルでその町の魅力を知り尽くしたいと思い、ある時は庶民目線のアプローチをし、またある時はちょっと裕福な人というスタイルでも、パリ滞在を楽しもうと試みたのだった。
 すると同じ町でありながらも、様々な断面があり、感じることも異なってくるということが解り、よりパリという町の素晴らしさが感じ取れることを実感したのだ。

 フランス人でもパリに行ったことがない人が多いと聞いたことがある。それもパリ郊外に暮らしている人でも、パリに足を向けない人がいると聞いて驚いたものだ。
 フランスは国土も広いし、南と北、西と東では文化的背景も異なるから、それぞれの土地の人は、自分が帰属する地域での暮らしを愛し、楽しんでいるということも理解できた。

 もちろん1970年代にも全国を網羅する鉄道網があり、特急列車もあったが、TGVのような高速鉄道はまだなかったから、フランスの南北を横断する旅は結構時間もかかったとみられる。
 しかしフランスでも出稼ぎというのか、田舎からパリに仕事のために移住する人もいる。その典型がオーベルニュ地方という、フランスのへそのような、中央部の山岳地帯で、小麦なども収穫しにくい土地がある。そこで彼らは昔から木を伐採して薪を作り、それを大都会に売って生活を立てた。
 親戚から送られる薪や、田舎の産物を商う店をパリに作る者もいて、その典型がやがてカフェ・シャルボンという、コーヒーを飲ませる、カフェの原型となっていった。まずは庶民派スタイルのパリ滞在についてお話を進めようか。

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北ホテルのあるサンドニの運河

 パリに移住した堀内誠一さんや、編集長のベルナール・ベローさんを訪ねて、僕が足繁くパリ20区の”いりふね”編集部に通った、70年代80年代には、まだパリのあちこちにカフェ・シャルボンの名残が残っていたものだ。
 木炭や薪、練炭のようなものから石炭などの燃料を扱う、シャルボニエという商売では、旦那さんが注文の品を配達する留守を、おかみさんが守るのだが、それならば店を守りながらカウンターで、コーヒーを煎じて飲ませると商売になると、アラビアからコーヒー文化が伝わるとカフェの原型ができたのだそうだ。
 それが証拠に老舗のカフェのギャルソンたちのエプロンが黒なのは、歴史ある炭屋の名残なのだった。

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”いりふね”社主の、ベルナール・ベローさん一家。
彼にはたくさんお世話になりました。

 その時代に定宿としたのは、14区あたりの三ツ星ホテルで、そんなに宿代も高くはなかったが、一日でも長くパリに滞在したかったから、安宿で充分だったし、僕が選んだホテルは浴室も広く、何より地下鉄駅のそばなのが良かった。
 その当時愛読していた、久生十蘭の小説に描かれた地下鉄路線は、南北を結ぶ4号線で、クリニャンクールの蚤の市にも、サンジェルマンへも行ける便利な路線だったから、毎日あちらこちらへとそれに乗って、都市探検の足を延ばしたものだった。

 20区のベルビルには、朝早くから開いているワイン商があり、そこのカウンターに、たくさんの男たちが群がり、早朝なのにワインやアルマニャックを飲んでいるのだった。
 あとで知ったがこの人たちは、まだ暗いうちから中央市場で働き、また道路清掃をしてくれている働き者たちで、彼らにとってはその時間がいわば夕方。一杯やって家に帰り、ようやくベッドで眠れる前のたリラックスタイムなのだった。
 こうしたワイン商の店の前には、手廻しの荷物用エレベーターがあり、昔は馬車で、今ではトラックで運ばれてきたワイン樽を、上げ下ろししていて、店の中にもそれがあり、樽や瓶を持ち上げて、客に供するのだった。

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ベルビルのカフェ・シャルボンにて。

 こうした大衆向けの店でワインなどを注文すると、グラスの下に皿を置き、盛り切り一杯にワインを供する。なんだか日本の下町の酒場に共通するサービスの文化があるのだった。
 堀内さんから聞いた話だと、下町の親父たちは、赤ワインを飲んでいて、最後の一滴を爪の上に垂らし、爪の上のルビーと呼び、チュッとそれを飲むという。その粋なしぐさを僕もよく真似たものだった。
 レストランは高価だが。ビストロなら何とか食事ができると、よくそのような庶民的な店で頂いたのは、甘みがたっぷりのオニオングラタン・スープや、クロックムッシュー、ウフ・マヨネーズ、そしてステック・フリットといった庶民の御馳走だった。
 あるいは総菜屋で様々なおかずを手に入れて、バターたっぷりのクロワッサンやバゲットとともに、ホテルの部屋で頂くことも多かった。
 なんたって美食の都パリは、おいしいものも一杯で、飽きることがなく、滞在を心から楽しむことができたのだった。

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