『妖精の詩』のころ。
1973年は僕にとって、楽しく素晴らしい年となった。それはその年の4月10日に発売された、アグネス・チャンの『妖精の詩』がヒットしたからだった。
香港から来日した彼女が、最初にヒットさせたのは安井かずみさん作詞の『ひなげしの花』で、僕は二枚目のシングル盤のための詞を、作曲の加藤和彦君とともに指名されたのだった。
打ち合わせに行くと可憐なアグネスと、きれいな顔立ちのお姉さんのアイリーンがいた。
その日の僕は膝の抜けたリーバイスのジーンズを履いていたから、なんと汚らしい奴が作詞家なのかと思われたかもしれない。
その頃の僕はできる限り歌い手と話し合って、どんな考えを持っているのかを聞こうとしたものだった。こちらの勝手な思い込みで、歌を書いてはいけないと考えていたからだった。
そうして彼女と話し合って感じとったイメージが、妖精という中性的な存在だったというわけ。
この歌はオリジナルコンフィデンスで5位になり、年間では36位という結構なヒット作となったので、ありがたいことに結構な額の印税が入ってきたのだった。
帰国後のひと月分ほどの生活費を残して、アエロフロート便のオープンチケットを買い、残りのお金を持って1973年末のパリ、そしてロンドンへのあてのない旅に出たのだった。
パリの宿に選んだのは“anan”の仕事仲間だったスズメちゃんが勧めてくれた、14区の地下鉄ムートン・デュベルネ駅のそばの三ツ星ホテル”ヌーベル・オルレアン”だった。
この界隈は戦前の昔、多くの日本人画家や作家が暮し、その足跡を残している界隈で、ホテルのすぐ横にある魚介の店は、林芙美子が銘仙の着物姿で鰯を買いに行った店なのかも知れなかった。
またモノプリという、庶民的なスーパーマーケットや、総菜を売る店、おいしいパン屋さんなどがあり、そんな気取りのない下町の風情が僕には嬉しかった。
ホテルの前のジェネラル・ルクレア通りを、もう少し南に下ればオルレアン門の交差点で、その近くには平屋建てのカフェがあり、また回転木馬があり、子供たちに人気だった。
そして通りを北上するとポール・ロワイヤルの四つ角となり、そこにはヘミングウエイが好んだ“クロズリー・ドリラ”というカフェ・レストランがあった。
このライオンの像があるポール・ロワイヤルあたりは、昔は郊外と往来する辻馬車の駅があったところだと聞いた。
近くの1950年代の雰囲気の残るカフェには、ボックス席の壁のところに、小さなジューク・ボックスがあって、恋人たちはそれから甘いラブソングを聞いていた時代であった。
蚤の市が開かれる曜日には、地下鉄に乗って蚤の市に出かけ、別の日にはサンジェルマン界隈やモンマルトルのカフェで人間観察などを楽しんだものだった。ある日サンジェルマンのカフェ・テラスでコーヒーを楽しんでいると、ブルドン弾きの叔父さんが登場したので、お金を渡すと、ブルドンを弾いて唄い出し、それがフランス人には大人気の曲で大盛り上がりとなったのだった。ブルドンとは、英語でハーディー・ガーディーという楽器で、ドノバンがアルバムタイトルにしていたのだった。
この時代には、セバストポール門のところに、アール・ヌーボーのタイルで埋め尽くされた”シェ・ジュリアン“というレストランがあり、そこでは若い学生たちも低価格で食事が楽しめた。
千切りしたニンジンのサラダにポタージュ、そしてメインには、鶏の赤ワイン煮込みの“コッコヴァン”、それに小瓶のワインが一本ついて、なんとお代は日本円で300円くらいだったと記憶する。
だから毎晩その店は大繁盛していたものだった。太っ腹な店主が引退して、その後店を買った人は、高級レストランに仕立て直したと聞く。残念なことだ。