西麻布は大人の街
1970年代の西麻布界隈には、原宿とはまた異なる大人っぽい店が多くあり、そこへやってくる人たちもまた、その時代の東京文化を体現している人が多かったものだ。
僕が良く通ったのは『茶蘭花』という店で、そこは“全学連”ならぬ“全ブス連”を名乗る、素敵な女性たちが営む店。
そのメンバーはスタイリストの堀切ミロさん、デザイナーの川村都さん、そして女優の麻生レミさん達。
そこへ顔を出すようになったきっかけは、やはり加藤和彦だったと思うのだが、ずいぶん昔のことで、はっきりしない。
ただ加藤君と一緒に堀切さんのお宅にお邪魔した時、同じ建物の上の階に住んでいた麻生さんと、ロープにつるしたザルを使って、もののやり取りをしていたので驚いた。まるでナポリの下町のようで面白かったのだ。
『茶蘭花』には六本木や青山を拠点に活躍している、デザイナーやコピーライター、カメラマンなどの、いわゆる横文字ビジネスの人たちがやってきて、いつも賑わっていた。
ちょっとしたトラブルが起き、自由通りのアパートを引き払わなくなった時も、この店で知り合った松本君というカメラマンの友人が、しばらくうちにおいでよと誘ってくれ、中目黒の蛇崩という、恐ろしい地名に建つアパートに転がり込んだ。
青山通りと西麻布交差点を結ぶ外苑西通りにあった、エドワーズビルの最上階には、長友啓典さんと黒田征太郎さんのK2のデザイン事務所があり、彼らにもよく可愛がっていただいた。関西からやってきた、おもろい歌を書く奴だと、興味を持ってくれたのだろう。
長友さんと一緒に、三洋商会の、コート・ブックのような冊子を作ったことがあり、作家の野坂昭如さんに緊張しながらインタビューをしたことを思い出す。
僕をK2に紹介してくれたのは、当時大人気の”モコ、ビーバー、オリーブ”という、三人組のグループ・シンガーのモコさんこと、高橋基子さんだった。
彼女たちが歌った『海の底でうたう歌』が大ヒットしていたころで、確かニッポン放送の人気DJカメ&アンコーのひとり、亀淵昭信さんとの付き合いから、彼女たちと知り合ったのだった。あの時代の素敵な人間関係の連鎖を、いまさらながら驚き、感謝している。
西麻布にはほかにも、文化人が集まる小さな店がたくさんあった。そんな一軒で、その時代を牽引していた写真家の篠山紀信さんや沢渡朔さんたちの末席で、酒と酒席の楽しみを覚え始めた時代だった。
写真界の巨匠たちはその宵、お酒が入って陽気になり、あの時代に流行りでもしたのか、なぜかオネエ言葉で会話を楽しんでいるのが不思議だった。
その頃にフランスからダニエル・ビダルという、なんとも愛らしい歌手が来日し、日本デビューを果たした。
そしてある日、彼女を招聘した青山音楽事務所から連絡があり、彼女が歌う日本語バージョンを作詞することになった。
仏蘭西人形のようだと言われた彼女は、まさに愛らしい少女で、エキゾティックな雰囲気もあった。それは彼女が仏蘭西領だったモロッコに生まれたからだろう。そして17歳の時にシャルル・アズナブールに見いだされてデビューしたと聞く。
レコーディングの日、日本語の発音を彼女に教えてあげていたら、いざ本番というときに、レコーディングブースに一緒に来てといわれ、なんと彼女は僕の手を握って、歌い始めたのだった。
松山青年は照れながら、そしてドキドキしながら、手をつないでのレコーディングに付き合ったのだった。
ダニエルさんは最近も来日しているらしく、相変わらず日本での人気があるらしい。今は南仏のドラギニアンという町で、レストランを経営しているというから、いつかそこを訪ねてみたくなった。
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