【書評】『教養の書』を読む。 読書とは、文化のたすきを未来へ繋ぐリレーに参加すること。
ロッシーです。
「これからは教養を身に付けろ!」
という言説が目立っているように思います。
でも、「そもそも教養とは何ぞや?」
そのあたりを知りたくなり、『教養の書』という本を読みました。
教養の定義
いきなり結論ですが、教養の定義について、本書から引用します。
おそらく、この結論部分だけを読んで「なるほどそうか~」と思う人は少ないでしょう。なぜこのような結論になったのかは、本書を読んでいただければ腑に落ちると思います。
教養について興味がある方には絶対にオススメです!
文化遺伝子の担い手
私がこの本で一番印象に残ったのは、以下の記載です。
人間もそれ以外の生物も、遺伝という仕組みにより世代を超えた情報のリレーを行っています。
しかし人間が他の生物と違うのは、遺伝という仕組みに加え、「文化」や「教育」といったメディアで、世代を超えて情報をリレーさせることができる点です。
これは、文化遺産を遺伝させるという意味で「文化遺伝子」といってもよいかもしれません。
典型的なのは書き言葉、つまり書物です。それにより、様々な概念が継承され、ときには改良され、次の世代にバトンタッチされていくわけです。
ただし、この「文化遺伝子のリレー」は、それを担う人がいなければなりません。
例えば、誰も夏目漱石の『こころ』を読まなくなったらどうでしょう?
『こころ』は後世には残りません。本棚からも消えてしまうでしょう。
でも、どこかで誰かがそれを手に取って読み、そしてnoteのような媒体で情報発信をして、それを見た誰かが『こころ』を手に取るなら、文化遺伝子のリレーは続き、後世に残っていくはずです。
これは書物だけではなく、音楽、絵画、伝統行事などあらゆる文化についても同様です。
また、自由、平等、人権という概念にしても同じです。
私達は、それらを当たりまえのものとして毎日暮らしていますが、誰かが文化遺伝子のリレーの担い手になってくれているからこそ、それらが維持されているわけです。
そのように考えると、読書をしている人は、楽しみの一環として本を読んでいるだけではなく、そのようなリレーに参加しているともいえるわけです。「どの本を読むのか」という選択は、文化遺産として継承していくべき本をどれにするのかを「投票」している側面もあるでしょう。
なぜ古典を読めといわれるのか
よく、「古典を読め」という人がいます。
それは、単純に古典から得られるもののほうが、最近流行っている本よりも大きいから、という理由だけではないと思います。
古典を読む人を少しでも増やすことにより、文化遺伝子のリレーの担い手となってもらいたい、という想いが深層心理としてあるのかもしれません。
もちろん古典だから流行りの本よりも価値があると決めつけるわけではありません。
しかし、古典を文化遺伝子のリレーという観点から見たとき、何百年、何千年という膨大な時を経て先人達がたすきをつないできたという事実があるわけです。そこはきちんとリスペクトしたいですね。
もし古典が苦手な人も、
「私はいま、未来の人類へ文化遺伝子を引き継いでいるんだなぁ。」
と思いながら読書タイムを楽しめば、また違った趣があるのではないでしょうか。
みんなでたすきを繋いでいこう
かつて誰かがつないでくれた読書のたすき。
それを自分が受け継ぎ、そして未来の誰かにそのたすきを繋いでいく。
あなたの読書は、今後も続いていく人類の歴史において、貴重な一区間を担うのです。
この本を読まなければ、私はそんな風に読書を捉えることはなかったでしょう。
そういう意味では、この本のたすきは私に渡されたんだなと思います。
だからこそ、こうして記事を書いているわけです。
そして、いまこれを読んでいるあなたにそのたすきを渡します。
後はお任せいたします。どうぞよろしく!(笑)
最後までお読みいただきありがとうございます。
Thank you for reading!