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ICEアプローチが今なぜ求められるのか? 第11章
〜おわりに〜
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おわりに
デジタル社会において人間はいかに考えて、いかに生きるか
今世紀に入り、科学は人間の脳に近づくAIというテクノロジーを生み出した。これまでの人類の歴史で得られた知識よりも多くのものを人間社会に提供する。私たちの日常の営みを劇的に変えている。IT革命がもたらす社会は新たなExperience Changingをもたらし、人間社会の結びつきや生き方の可能性を広めた。
しかし、「急速な科学、テクノロジーの進化は、表面的には便利で快適な生活をもたらす一方、人間の心の中の葛藤、分裂は強化される。分身的ロボットで自分の再生が可能になると「自分が何者か」がわからなくなる。内部的分裂は、人の生態、文化のあり方を作る上で、現代社会の大きな課題である。
(ヨン・フォッセ「だれか 来る」白水社)
ICEという学び方についての論考であるが、なぜ今ICEが求められるのか、その社会的背景についても考察した。
「科学と人間」という深淵なるテーマを抱えつつ、デジタル社会に向き合う人間の考え方、生き方について、これまでに思索したことなどをノートから引き出して書き連ねた。今後、AGIという自律的AIが開発されれば、人間のような意思や感情を持つこともありうる。人間の思考や行動と同じように働く非生命体(システム)が誕生したとき、私たちはいかにして向き合うか真剣に考えなければならない。
日本社会の持つズレついて、その根源的なものがどこからきているのか考えた。ジル・ドゥルーズのリゾームという考えがヒントになった。インターネットはまさに芝生の根茎のように社会に蔓延っていて、情報やデータが否応なく我々の個人や社会の日常に繋がってきている。やがてあふれてくる情報に個人が埋没してしまい、個人が見えなくなる。自分自身も喪失してしまう。それを断ち切るも繋ぐも個人の自由であるはずだが、ミッシェル・フーコーの「監獄の誕生」のように監視社会化していくと繋がれてしまう束縛と繋げない不平等が生じる。AIと科学が高度化すると人間存在は遠くなっていく。
科学技術の優先と新自由主義の浸透を主たる源流として、資本主義の変容が急速に進んできた背景を書いた。科学技術優先を国家戦略とした覇権国家米国は、それだけにとどまらずに、競争による経済的優位を促す新自由主義を世界に普及させることで新植民地政策を実行した。今日の国家間の政治的分断、経済的格差の拡大、地球の自然破壊が、この結果もたらされたのである。
「人間が客観的になることはすでに人間存在を放棄している。科学は巨大化せざるを得なくなり、市場だけが膨張して人間による制御ができなくなる。科学者にも全体が見えなくなる。レオ・シラードやアルベルト・アインシュタインがマンハッタン計画で抵抗し、パグウォッシュ会議を構想したが、米国はジェイソン機関を作りベトナ戦争を続けた。」
(大江健三郎)
新自由主義と対峙した人間中心の経済学の系譜も辿ってきた。ソースティン・ヴェブレンはエコロジーを軸に置く宇沢弘文や玉野井芳郎らに受け継がれていく。人間中心の経済学が基本にある。
ヘルベルト・マクルーゼは「一次的人間」の存在を批判して、常に自分の意思で判断することを心がけ、社会を批判的に見る人間教育に力を注ぐ。地域の力を信じて育てるために非暴力運動を推進したマハトマ・ガンジー、ケイパビリティを信じたアマルティア・セン、ムハマド・ユヌス、サティシュ・クマールの教育などがあった。
しかし、シカゴ派から生まれた新自由主義が人間の欲望によって金融資本主義を生み出し、ネーションを超える経済的巨人たちを生み出す。今日では、国際間の格差が国内の格差社会へと移行していく。
科学技術の優先と新自由主義による地球の破壊は限界をすでに超えていると警鐘する現代の論者たち、ユヴァ・ノア・ハラリ、トマ・ピケティ、マルクス・ガブリエル、斎藤幸平らは、資本主義が変容したのではなく、もともと資本主義に内在しているものの運命であると考える。彼らとは違い、資本主義の変容を人類史の視点で分析した柄谷行人の「交換様式」に注目した。カール・マルクスやマルセル・モースを新たに読み解き、生産財の私有化というこれまでの資本論の解釈を「交換様式」の変化が資本主義に至ることを解く。重要なことは未来に向けて、人類の活動は、狩猟時代の贈与交換に戻り、現代の交換様式と融合していく神の力を見出していることである。人間の生き方の問題として資本主義を再定義した、
日本のDXはあくまでも国策による成長モデルである。30年の経済発展の空白を埋め、未来のデジタル社会へ向けて一歩先行するための政策である。首相が提唱する「新しい資本主義」がスタートであり、その前提となるデジタル中心の社会をSociety5.0とするが、曖昧な定義に基づく政策に構想は作れない。国は、期待通りの成果を上げていないDXへのテコ入れをするが、主体的に取り組めないものからはイノベーションは起きない。すなわち、経団連や大企業主導のDXの限界ということでもある。
しかし、本当の問題はそこではないのではという疑問が生じる。日本社会に通底している地層を調べる。痛烈な指摘がある。「私たち日本人には何が足りなかったのだろう。」という問いである。日本人に欠けていて、社会に影響を与えていることは、「自分が決めた絶対的なことを個人として明示することであった。」日本社会を特徴づける「組織と個人の関係」についても詳しく分析する。
渡辺一夫の<寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか>(渡辺一夫「僕の手帳」)やアルベール・カミユの<殺すより殺される側に立つ>(アルベール・カミユ「ぺスト」)という言葉がある。
堀田善衛は、近衛文麿の天皇への上奏文の真実や3.10東京下町空襲後3.18の焦土視察での市民の土下座の場面と藤原定家や藤原兼実の安元三年の火災を記した内容は、為政者と庶民の関係において同質のものであるとして「政治がのうのうとこの人民(庶民)の優情に乗っかっていたのではないか」(堀田善衛「方丈記私記」)と言う。
マサオ・ミヨシが米国に移住し、外から見た日本の三流国という指摘は、人間哲学が存在していていない文化的品質の極めて鈍感な社会のことを言っている。T・Sエリオットが文化の定義をしている。エリオットは、与えられた教育によって簡単に得られるものではないと言う。
「文化とは個人・組織・社会それぞれのものがあるが、社会や組織に結びつかない個人の文化は存在しない。文化とは、われわれが意識的にそれを目的とすることのできない唯一のもの、つまり結果である。ただし、意識的に努力して、生きている結果である。」
(T・Sエリオット「文化の定義のための覚え書」)
日本人が外国文明をどのように受け入れたかについては、丸山眞男の歴史の古層論(丸山眞男「忠誠と叛逆」)や加藤周一のかくれ型(加藤周一、丸山真男、木下順二、武田清子「日本文化のかくれた形)がある。自己批判を核とする外国の精神を学ぶことはなく、自文化との距離を対象化しつつ、すなわち付き合わせることなく、未知のものを機械的に取り入れたのである。本稿では日本社会が持つ上部機構の歴史的背景も辿ってきた。戦後の出発点を見つめることなく中心のない生き方をしてきたことから生まれた歪みはDXの推進にもある。教育の貧困のために、このことが放置されている。
大江健三郎は、日本としての正しい生き方があると言う。「そもそも日本は周縁に立つ国である。日本は特別であるという中心的思考や単一化の考えは捨てなければならない。中心に対して周縁はどう働くのかを考えなければならない。周縁は決して中心になってはならない、ということではないか。」
(大江健三郎「小説の方法」)
日本の教育のDXについては、本来の教育のトランスフォーメーションとは別のベクトルに向いている。国は、Society5.0の社会に生き抜くデジタル人材に的を絞った。理系重視の教育である。デジタルデータ駆動型教育である。教育DXの提言をする有識者会議がデジタル推進派で占められて、議論が足りないまま方向が決まっている。2027年の学習指導要領改定には、デジタルデータ駆動型の「個別最適化」が予定されている。
西欧では人間哲学を学んだ上にデジタルリテラシー教育を行うが、日本では哲学教育が欠けている。シリコンバレーですら、テクノロジースキルに偏った教育への反省から、リベラルアーツが見直されている。“Tizzy &Fuzzy”で論じられるのは数値化によって常に正しい(らしい)ものを求めるのではなく、一見無駄な時間を使って意味のないことや間違えることが人間にとって大切であることを示唆する。教育のトランスフォーメーションの実践モデルとして坂本和一の立命館アジア太平洋大学(APU)を紹介する。デジタル社会に向き合う教育として、デザイン教育やメディア教育の重要性を考える。松井範惇が「可能力」と命名したケイパビリティの習得を目指すリベラルアーツ教育がDXには不可欠であることを再認識する。
人間とAIについても考察する。
今、ウクライナとパレスチナでは戦争にAIが使われている。人間の力によって戦争を終えることができない。AIが精巧になり見分けがつかなくなっても、人間の見る眼は存在する。科学者はその専門分野で「それが人間であることとどういう関係があるのか」(益川敏英「科学者は戦争で何をしたか」)という問いを持たなくてはならない。
Eレヴィナスのことばを噛み締める。人間に課せられた責任は他者に対して有限ではない。無限の責任を持たなくてはならない。「最後は人間が決める」という山本龍彦の宣言こそ、日本から世界に発信すべきである。
「AIが豊かさの到来をつげるとみる考えもあるが、経済成長を目的としたDXは、国内や国家間の格差を確実に拡大させる。日本で行なっているDXは結果的に競争原理が働き、社会共存や公平の実現からは離れる。地球規模で考えるなら、パリ協定から10年経っても目標は遠のき、金融危機から15年経ってもレジリエンスのある経済のバランスは取り戻せていない。資本主義のソースコード(自由主義的経済論)を分配と公正な移動へ考え直す必要がある。リベラル経済学とは、成長の質(価値観)を考えて、その範囲での成長の量を考えるものである。」
(リチャード・サマンズ「人間中心の経済学」)
1960年代にヌーヴォ・ロマンの運動が起きるが、イマジネールなものを生き方の中心に置いた。日常的な真実に欺瞞的に結びついているフィクションを犠牲にした現実の世界に対して、真に偽りのフィクション、完全に架空のフィクションの成果であった。客観的環境に近接するために心理学、形而上学、心理分析などを利用することをしない。神の眼で持ってみるようになってくる。このように人間の主体性を切り離して生きるという選択がAIによって生まれて日常に不都合はない。人間が想像力を必要とする理由である。想像力とはイメージを壊すものであると定義したガストンバシュラールの言葉を思い起こす。
「想像力とは、イメージを形成する能力ではない。知覚によって提供されたイメージを歪形する能力である。基本的なイメージから我々を解放する。イメージを変えるもの。イメージの思いがけない結合がなければ想像力はなく、想像するという行動はない。」
(ガストン・バシュラール「空と夢ー運動の想像力にかんする詩論ー」)
デジタルネーチャーは、人間の脳をベクトル化できるということでAIが脳を制御できるというのではない。AIの生成したものと人間の脳が作り出したものの見分けがつかなくなっている。つまり真実とは何かの問題を提起する。あるいは人間の生き方の問題と言っても良い。
生命誌を綴る中村桂子は、新しい生き方を提唱する。人間は生命誌絵巻の中で、ほかの生き物たちと同じところにいるということである。新自由主義を推し進める人たちはこの生命絵巻から外れて、人間は扇の外にいると錯覚している。人間は矛盾の塊である。かつ弱いものである。弱さを体に組み込んだからこそ続いてきた。
私たちは、「人間の知性は謙虚なもので慎ましいものである。知性は一つの倫理観の表明である」(中村桂子「科学者が人間であること」)という問いを発していなくてはならない。人間であることを中心にしたことの世界観である。
AIに象徴される21世紀のテクノロジーは「人間という自然」のことを忘れていないか。人間が生き物の一部であることを忘れていないか。もし、人間が本当に知りたいことを知ってしまったら、わたしたちは生きていく力を得るのだろうか。空に星があることを忘れてはならない。
(星野道夫「旅をする木」)
シモーヌ・ヴェイユは、人は義務だけを負うという。権利を持つものは当人ではなく、その人に何らかの義務を負うことを認める他の人々が決めるのである。
デジタルやAIというこれまでとは異質なものの人間の脳への影響が、30万年の間もずっと秩序とカオスの往還にいる人間にとって、「人間が考えて、生きる」ということに照らしたとき、人間の生命をどのような未来へ向かわせるのか。
リウー医師がリシャール医師会会長と対立する。天災は常に法や行政の対立と結びついている。誠実さが戦う唯一の方法である。それは自分の仕事をすることである。今私たちは自分のできる仕事をしているのだろうか。カミユは人間に必要なものは「無知」(ソクラテスが言う)であると。自分は何も知らないと言う気持ちで全ての可能性を否定しないことから出発しなければならない。
大江健三郎とウイリアム・ブレイクの言葉がある。
「人間は便利さに慣れると後戻りできない。人間がコントロールできない危機に向けて、テクノロジー自体のダイナミズムが、人類を引き摺り込む危機は、今や現実のものとなっている。人間としてのコントロールの役割を放棄し、テクノロジー自体に、人類の運命を委ねようとしている。」
(大江健三郎「新装版 大江健三郎同時代論集)
「不思議な言葉であるかもしれないが、「教育される能力」がある。この反対側にあるのが「教育する能力」ですが、ソクラテスと子規をとりあげています。それぞれ有能な教育される能力の持ち主とそうではないものとがいました。プラトンや虚子は有能な教育される能力の持ち主である。それぞれの能力は単独で存在するものではなく、相互に理解し合う力が一体になって顕在化してくるものである。そこに至るまでの深い学びとお互いを理解し合う気持ちのペイシェンスによるのである。」
(ウイリアム・ブレイク「ブレイク詩集「四つのゾア」」)
フォークナーの「朝のレース」からの引用がある。『「おまえはなに者かに、ならなきゃならん」/「もちろん」と僕はいった。「おれはいまそれをやっているよ。おれは狩人でもあるし農夫でもあるものになるんだ。あんたのようにさ」/「ちがう」「もうそれじゃ充分ではない。男なら誰でも、十一箇月と半月分、農場をやって、あとの半月は狩をする、それでいい時代もあった。しかしもういまは、そうじゃないんだ。いまではな、ただ農場の仕事と狩の仕事にかかりきり、というのじゃ充分ではない。おまえは人類の仕事をやらなきゃならないよ」/「人類?」と僕はいった。』
You go to belong to the business of mankind.
「人間は労役しなければならず、悲しまなければならず、そして習わなければならず、忘れねばならず、そして帰ってゆかなければならぬ /そこからやって来た暗い谷へと 、労役をまた新しく始めるために」
(大江健三郎「新しい人よ眼ざめよ」)
AIは人間のトラバーユを確実に奪うものである。人間には色々なエラボレーションがあるが、本を読むこともその一つである。劇作家の井上ひさしはデジタルの時代でも「手が記憶する」と言う。社会、世界に自分をつきつけることで、内面に根ざす表現の言葉を現実的なものに鍛えることである。子どもたちの精神と肉体において、言葉によるエラボレーションの訓練がいかに大切か、それこそが教育の基盤となる。
時代を読み取り教育される者を信じて地道に積み重ねていくことが何より大切ではないだろうか。
ICEが未来の学びへ伝えるものとは?
カナダで生まれて日本で育ったICEアプローチの十数年の活動を振り返ってきたが、もしゲーリーと柞磨がいなかったらどうなったであろうか? ICEが学校教育から社会人教育まで幅広く承認されて、主体的な学びを促し、学修者が自らを変えて、生きていく姿を思い浮かべることは幸せである。ICEは学びのフレイムワークであるので、これから出会う学修者が継続的に進化させていくことは間違いない。
二人の著書から、まとめの言葉を引用したい。
ゲーリーの言葉である。
現在高等教育で行われているアクティブラーニングは、このままでは社会に通用しない。その原因と対策について述べている。最大の原因は、六・三・x・三x四・(x・社会)という戦後の学校制度にある。(xが過酷な入学試験:Herber Passinコロンビア大学*)大学は社会につながるための実験場であり、高校までの学びとの決定的違いは、大学は「伸びしろ」を求める場所であること、A I(Authentic Intelligence:真正な知識)は学習プロセスの学びであり、A I(Artificial Intelligence)という記憶の学びを超えるものである、いつまでもアメリカのモノマネをしていては「日本の高等教育が学びを生み出すことはない」さらに1995年、「学習パラダイム」(Barr & Tagg)が起こってきたこと、さらにはアクティブラーニング、I C E、終章でSMU-X/Duke-NUSの挑戦へと論じられます。
・大学と高校までの違いは、大学は実験の場=伸びしろ、を求める場所。
・それを日本の企業(社会)はダメにした。学生の資質や潜在能力を評価できないため。(米国では社会がそれを評価する仕組みを持っている)
・I C Eによるバックワードデザイン(トンネル技法)で、出口から学びを逆にデザインすることができる。(カール・E・ワイマンが言及する)
・A I=Authentic Intelligenceであって、これはAIが真似できないもの。「真正な知識」学修プロセスを重視するもの。記憶中心ではない。
・学力低下という言葉は間違いであり、学力が多様化しているとすべき。
(土持ゲーリー法一「社会で通用する持続可能なアクティブラーニング〜ICEモデルが大学と社会をつなぐ〜」
*ゲーリー説明:
Herber Passinコロンビア大学の指摘は、xは単線型でなくしている。つまりアクティブラーニングができない教育システムになってしまっている。にもかかわらず、文科省はアクティブーニングを米国のモノマネでやろうとしていることに大きな誤解があった。
(「F Dとは継続的な改善〜アメリカのF Dの過去・現在・未来〜」(土持ゲーリー法一 アルカディア学報No.631))
柞磨の問いの構造化についての考え方は、ICEを活用するためには欠かせないものである。このことは繰り返し書いてきたが、最後にもう一度書いて、本編のおわりとしたい。
学問をするために問いを立てるのは必須ですが、問いの立て方にも構造があります。そもそも、「本質とは、物事の核心部分で存在意義の源となるもの、考えや概念を根底から支えているものです。本質的な問いについて考えるのですが、本質的な問いは総じて大きな問いになりやすく、答えることが容易ではありません。そこで、本質的に迫る働きを持った問いを考え、それを本質的な問いとして扱うことにします。たとえば、存在意義に焦点を当てた「そもそも〇〇にはどんな意味があるのだろうか?」のような問いは、本質を捉えようとする働きをもった問いだといえます。」社会人の読者にとっても響くことばです。問いのシークエンスで構成された授業デザインの挑戦は教師にとってはタフですが楽しい活動です。問いづくりが日常となるまで鍛錬することが求められます。「教師はことばの定義を曖昧にしたまま使うことが多いことを反省すべきである。鍛えられていないことばや想像力の見えないことばは生徒の心を動かすことはない。」
「大切にするものはまず他者性です。学びは他者性を認識することからスタートします。」「(学ぶことの)究極は、それぞれの人が創造的に生きることであり、それが主体的ということでもあり、他者や社会とつながることでもある。私が「他者性」という言葉で代表して表現している、「異質なもの、拮抗する概念、不条理」などがある。それは一見生きることを困難にする要素に思えるが、自分の可能性を拓くものとして働く重要なものであり、それが学びを豊かにする。他者とかかわり合うという関係性における価値判断を求める。(学びは)、共感や葛藤の中で行われ、矛盾を乗り越えた意思決定となることが多い。そのプロセスを経て「状況とかかわる力」が育ち、アイデンティティが成長し、人として成熟する。異質なもの、矛盾や相反する価値観で構成された中で、葛藤に導かれ成長し、真の強さを獲得するものである。」
「学びを掘り下げ、深めるためには論点が必要です。そもそも問いができるのは問題意識や違和感(観察によって生まれる)があるからですが、学びに応じてその論点(観点、視点)をずらしていくことも必要になります。「生徒に洞察を促すために教師は「転」の問いを発します。(「にもかかわらず〜なのはどうしてか」)思いがけない結合を授業では「転」「破」に相当するものとして捉える。これがないと、情熱が内部から湧き出るといったことを期待できない。知識化されたもの、予定調和で進んでいくものには、その人しか持ち得ない生命の息吹を生むことはできない。」
究極の問いは「「あなたならどうするか」を示せること、「So what? (だから何なの?)」 と問われたときに自分の考え方を明確にできるようになることです。」
自然や社会の摂理、混沌とした人間社会、歴史、未来への展望などの対象に向かったときに問いが形成される経験、発見、矛盾、価値、想像、創造など多くの要素から成る基本的な構造を発見できれば、学びにより真正な意味を与えることができます。問いの構造を理解して学びのプロセスに活用することで多様な授業デザインが可能になるのです。what, why, howの3次元の問いのセット構造は、学習対象との相対化が可能となり、動的な学びが実現できます。未来思考のifや新たな価値を生み出すif notの構造はまさにレトリカルシンキングで大切な仮説の思考です。学びのフェーズでの導入、展開、洞察、本質の問いという基本構造ですが、深化・拡張領域では「本当にそうなのか?」「そもそも何故そうなのか?」という問いです。洞察領域では新しい観点や意味づけを生む「転」としての問いがあってこそ学びは深まります。これが「問いが立つ」ということです、と言います。本質領域では「So what? (だから何なのか?)」「あなたにとってどのような価値があるのか?」という本質に迫る問いが生まれます。「本質は個々の事物・事象にあるのではなく、それらが織りなす流れの中にあることが多く、そのためテーマに基づいて内容をストーリー化しながら、全体像を把握することが必要です。」導入、展開、洞察、本質という問いの流れの構造をつくることが大切です。問いの構造化とICEを活用した授業デザインは、学習の対象によってあるいは生徒の状況によって、問いの立て方や配置を工夫することでフレーム構成を自由に変えることができるため、学びを豊かにします。問いの構造を活用したデザインの最初は教師がSuper Extensions(最大到達目標)を考えることです。そこから本質的な問い(Essential questions)を構想します。フレーム構成と各フレームのテーマを想定した上で、本質的な問いから派生する展開の問いを配置していきます。導入から本質に至る問いの流れの構造が生きてきます。
(おわり)