「こんなに苦しい人生、そこまでして生きたくない。」そう書いたのは高校一年の自分だった。
『こんなに苦しい人生、そこまでして生きたいとは思わない。自分にはきっと無理だ』
これは、私が高校一年生のGW明け、
クラス全員の前で将来の夢を語る、という「地獄の缶詰研修旅行」の
冊子の感想に書いたことだ。
当時の自分は何を想い、そのようなことを書いたのだろう。
そこに至るまでのかんたんな経緯
確かにある時から、わたしは「生きることはつらいこと」。
そう思い続けて生きていた。
幼稚園くらいの頃は、おそらくまだ無邪気な子どもだったのだろうとおもう。
しかし、小学校に入ってから、私は学校が嫌いだった。行きたくはなかった。特段大きないじめにあったということはほんのわずかで、仲間外れにされるわけでもなく、お友達がいないわけでもなかった。
だけど、「学校、お教室はきらい」だった。
そう思いつつも、「小学生は学校に行ってお勉強をするのが仕事」
勝手にそんなふうに思って、嫌だけど行くのが当たり前だった。
中学受験が本格化した頃から、まさに人生は「地獄のトンネル」に入ってしまったのかもしれない。
塾に行きたくない、勉強したくない、学校も行きたくない
何もしたくなかった。
そして、いまだに原因こそわからないが、
頭痛腹痛吐き気嘔吐下痢、等の症状はわたしの日常。
我慢して当たり前。
原因不明の不定愁訴が続き、心身ともに限界を迎えていた。
朝起きるのがとても大変で、後に検査の結果「起立性調節障害」と正式に診断されるのだが、
当時の親は、どうしようもない娘を叩き起こして、ベッドから無理やり引きずり下ろしてでも学校に行かせていたのだ。
そんなこんなでなんとか私立の中高一貫校(女子校)に入学するも…。
結果はおそらく、みなさんのご想像の通りだ。
家中大戦争のあげく、中一のうちに完全不登校。
行かなきゃいけないと自分でも思っていたけれど、どうしても行くことが怖かった、行けなかった。
(※この詳細についてはまた別の機会に…)
中学2年はなんとか引っ張られて「保健室登校」を少しずつ増やしていった。
だけど、教室に入ることができたのは、ほんの数時間だけだった。
中学3年生は高校進級のために、一定の出席日数や成績が必要になる。
通信制、単位制の高校を受験することも考え、選択肢にはあったものの、
このままこの学校で内部進学できたらそれが一番だ、と家族の誰もが思っていたし、私自身、不登校期間ほぼ勉強などしていなかったこと、
そしてあの悪夢の「受験」というものが恐怖でたまらず、消極的に内部進学を希望した。
「死なないから、死ぬ気でやれ」をいう父の言葉を胸に刻み、
自分の心に蓋をして、日々学校に通った。
そうしてなんとか手に入れた、「高校進学」。
自ら望んで手に入れた進学だったものの、
おそらくその時点で、私はすでに「生きる気力」も「希望」もなくしていたのかもしれない。
高校くらい行かないと、将来が危うい。また『地獄の3年間』だ。
次こそ単位や出席日数、成績がないと進級や卒業ができない。卒業できるかな。そんなことを日々考えていたのだと思う。
そんな状態で参加した『地獄の研修旅行』
高校一年生のクラス。
ほぼみんな中学一年生から同じ学年にいるものの、
仲の良い友達なんて一人もいなかった。
教室に、自分の居場所がないような気がして、とても窮屈だった。
そして、「地獄の」研修旅行はGW明けすぐに行く。
今思えば、まずもって時期がよろしくない。
絶賛「五月病」を発症する時だ。
それはさておき、春ということもあって、クラスのメンバーは知らない人ばかりだった。
そして、缶詰になって行うことは、「クラス全員の前に立って自分の夢を語る。」
人前に立つことや、皆の前で発言することが特段苦手、というよりも苦痛だった私にとって、その研修旅行は、まさに『地獄』でしかなかった。
冊子には、研修旅行に参加する前の準備段階から、全員のスピーチひとりひとりへの感想、そして最後に『自らの研修での学び・感想』を書くページがあった。
私はその感想欄に以下のように記載していた。
冊子に書かれていた『自らの研修での学び・感想』
『人生は、死ぬまで苦しみとつらさなのだとわかった。自分は耐えられないだろう。』
『仕事をするのは、お金、生活、つまり生きるため。それ以外の何ものでもない。やりたい仕事はないし、こんなにただでさえ苦しい人生、そこまでして生きたくない、無理だ。』
B5、1ページある記載欄に書いてあったのは、
これだけだった。
やることがない、いまの毎日。
過去の自分は何を考え、どんなことをしていたのだろう。
そんなことを思いながら本棚を一冊づつ見ていた時に、見つけた。
私はこの言葉、そして今にも消えそうな薄い筆跡、そしてまるで気持ちのこもっていない「字」。
そんなことを書いたことなんか覚えていなかったけれど、
当時高校一年生、15歳。
世間的にみれば、将来これから、という時に
なんて悲しいことを考えていたのだろう、と
いまの自分もさらに悲しくなり、そして当時の自分も可哀想にすら思えてしまった。
その冊子の『感想』への担任からのコメントは
そして。
その冊子は研修後に担任に提出し、赤字が入って返却されている。
しかし。
私の、その「自らの学び・感想」のページは、
担任がふれた形跡は何も残っていなかった。
書き加える言葉が見つからなかったのか、それとも
あえて見ぬふりをしたのか。
そんなこと今更推測したところで、なんの役にもたたないけれど。
夢を語る場でそのような感想を持った自分の考え方が悪いと言われればそれまでだが、
その振り返りを教員がフォローせずして、
なんのためになるのだろう、なんて思ったりもした。
(もう自分には関係のない話だが。)
母校では今年も例の研修旅行に行ったようだ。
私のような思いを抱く子がいなければいいな、」と切に願う。
そして、学校の先生たちは忙しくて大変だと昨今問題視されているが、
その中でも、ぜひ、お願いしたいこと。
それは、「夢を皆の前で語る」そのようなことをやって終わり、ではなく、
必要な子には、一緒に考える時間を作ってあげてほしい、それもある種必要な、「振り返り」「フォロー」ではないかと思う。
とんでもなくどうでもいい余談
ps 当時の担任は進学塾の講師から転職して間もなくであり、教員歴はほぼ無いに等しかった。
あまり書くとややこしくなるが、その担任は研修旅行中に、いわゆる「セクハラ」、はっきりいって「わいせつ行為」をしたのだ。
わたしは、研修中、体調不良でひとり別室に滞在していた。
まだ幼く、女子校という環境にいたからか、知識がほぼなかったわたしは、
「すごく嫌なことをする先生だ。でも担任だから仕方ないのかな。心配の気持ちの表れかな。」などと思っていたが、そうではなかったことが今ならわかる。しかし、密室が故、証拠も何もなく、ましてやもう10年以上昔のことを掘り返しても、「ムダ」だからやめておく。
そんな彼はなぜか多くの経験ある先輩教員たちを一っ飛びで追い越して
いまや「管理職」になっているそうだ。
実に不思議な、歴史と伝統がある学校だな、となんだか残念に思った。
話がかなり脱線してしまいましたが、
最後に。
私はこの研修旅行をきっかけに
人生を大きく壊す「摂食障害」を発症することとなってしまいました。
そのことについてご興味がある方は、
以前の記事をぜひご覧ください。
ここまでおつきあいいただきましてありがとうございました。
正直、ここ数日のじぶんの「消えたい気持ち」は凄まじく成長し、
頭の中で暴れ回っています。
ほんとうに心の底から、
「この人生いつまでつづくの」
「もうムリ」と思い、
こころに抱え続ける日々です。
ありがとうございました。🧸🫧