「恐怖」が居座っている…
みなさん、こんばんは。禧螺です。
今日もnoteをご覧いただき、ありがとうございます。
ここ最近、少々眠れなくとも、気力で創作や研究が出来ているという、私の身体至上、最高に神業的な状態に入っています。
ですが、その神業的状態は、心身の健康あってこそなので、調子に乗って無闇に続けるのではなく、身体を休めることを意識して、神業状態を維持したいです。
本日は、なかなか一歩踏み出すのがやっとな、私の中の「恐怖」について、なんとなく考え浮かんだことを書いていきます。
そもそも、どうしてこんなに長く、私の中に居座るのでしょうか。
💦
文章では、「結構はっきりと意見表明する方だろう」と自分では思っているのですが、実際はかなり臆病な私です。
どういった「臆病さ」を持つかと言えば、ある物事を始めようとする際の、一歩踏み出す、一歩始めるのに、相当な時間をかけます。
逆を言えば、十分過ぎるくらいの時間をかけないと怖い、と言えます。
これを「タイミングを逃してしまえばそれまでで、比較的、損になる行動だ」と、思われる方もいらっしゃると思います。
そう、「損」をとってでも「安定」したいのです。
でも、私の行きたい方向は、安定じゃないかもしれないけれど、「変化」で、そうすることを強く望んでいるのです。
「自分が自分自身を裏切ることがなければ、必ずどうにかなる」と言えるのに、抑制をかける私は「それで失敗したら、もう誰も見向きもしてくれないよ!!」とも言ってきます。
とても厄介です。
ただ、闇雲にこの言葉で、静止をかけているわけではありません。
過去にそうした、実生活において、いわゆる「失敗したから、見向きもされなくなった・軽い扱いを受けるようになった」という経験をしたことによって、
「自分の失敗=全て終わり、修正がきかない、誰にも助けてもらえない」
という、ねじれにねじれ、歪みに歪みまくった認知を、つくり上げてしまったのです。
そして、今やっと、私自身が正面から向き合えている…という状態です。
この状態に加えて、人間関係を全て手放し、職業も手放した、一番辛い時に、とにかくたくさんの本を読んで、知識を入れて出して、主治医以外の身近な人間には相談せずに乗り切れたことからも、どうも
「私なら、一人でもどうにかなるから、他に助けが必要な人に、助けがいくだ。私は一人でできるんだから、助けなんか求めちゃダメだ。」
という、もう書いていて、いろいろ怖い認知が埋め込まれていることに気が付き、どう扱えばいいものだろうかと、少し呆然としています。
こんな馬鹿なのか、幼稚なのか、気持ち悪いのか、自分でもよく分からない文章を書いていて、思考が整理されていないことが露呈して、お恥ずかしい限りです。
でも、ここでなら、「自分はこんなぐちゃぐちゃな状態」だと言って、昇華してもいいのかなと、今までのnoteでの経験から思って、書いてみることにしました。
今日、この記事を読んでくださっているクリエイターさんには、こんな部分をお見せしてしまって大変申し訳ないです。
それでも今、ここまで読んでくださったあなた様が、画面の前にいてくださることに、泣きそうです。
こんな記事をご覧になりたいために、ここを開かれたわけではないのに…。
それでも、あなた様に、この文章を読んで貰えたことで、「世界は想像するよりも怖くないのかもしれない…」とも思っています。
私は元気です、あなたのおかげで。
おかげさまです。
💦
トップ画像は あつかまくん/ゆみかまこ様 からお借りしました!
ありがとうございました。
みなさんからのスキで、私もきっと一歩進めます。
この記事にお時間をいただき、ありがとうございました!
それでは、今日はここまでです。
みなさん、どうぞご自身の恐怖と、向き合って差し上げてください…。
クリエイターの活動費として、使わせていただきます。 また、日本を中心とした、伝統文化を守り後世にも残して参りたいですので、その保護活動費としても使わせていただきます。