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2018年10月の記事一覧
あとがき 苦しみを抱えるあなたへ
私はこの文章を私と同じように機能不全家庭に生まれて生きづらさを感じていている人に読んでほしい。私は10代は親からの過剰な干渉に苦しみ、20代30代は、その後遺症である心的外傷ストレス症候群と解離性同一性障害に苦しんできた。「なんで?どうしていつも私はこうなんだろう?助かりたい、変わりたい」と思いつつもどうすればいいのか、自分の性格がおかしいのか、病気なのか何なのかさえ分からず。ずっと何も見えない
もっとみる謎の生きづらさの正体
自分がどうなりたいとか、子供をどうしたいとか、親がどうしてほしいとか、兄弟をどうにかしたいとか、恋人をどうしたいとか、そういうことから離れて生きることができたなら、なんと楽なことだろう。思い浮かべるだけで呼吸が楽になり、目の前が明るくなるような気がする。
ある日、自分という種が偶然この世の土に蒔かれて、芽が出て、それが育ち、いつか死ぬ。私たち人間を種と例えるなら神様はこの空だ。空は変わらず私
昭和の終わりの子供たち
私の体験したような話は、昭和の終わりの地方の自営業の家族にきっとよく起こりうる話なのかもしれない。最近、心的外傷ストレス障害の回復が進んで、昔のことを思い出すのが前より辛くなってきた。だから、ここで自分の幼少期を、改めて母親になった大人の自分の目線で振り返ってみようかと思う。子供の目線で思い出して苦しくなるのではなく、大人の自分の目線であの頃の世界を見返してみるのだ。
私が生まれたのは、197
私の心は、ゴミ屋敷。
36歳の時、心療内科の先生から「君の症状は、典型的なPTSDの症状だね」と診断された。その後、解離性同一性障害もあることがわかった。私の通っている心療内科の先生は、患者にはっきりとした病名はつけないし告げるのがあまり好きではないらしい。「あなたは、XX病です」「あなたは〇〇症です」と言って、患者を病気の型にはめて限定して扱うのが嫌いなのだそうだ。先生曰く、「僕のすべての患者さんは、みんなただの不
もっとみる解離同一性障害 ただの独り言だと思ってました
幼い頃は大人たちが忙しすぎて「いつも一人で遊んでいた少女」だった。小学生になり、母親の死後は、祖父と祖母に甘やかされて「陽気でお調子者の甘え上手なわがままお姫様」になった。そして中学生になり、父の再婚後は、「周りの空気を乱すことしかしない嘘つきの問題児」として毎日謝りまくっていた。就職してからは、それまでのビクビクと謝るキャラを封印した。そして強気で勝気なキャラを新たに立ち上げた。そして「経済力
もっとみる「ありがとう」と「すみません」
機能不全家庭に育った人は、よく「すみません」と言うのだろうか。結婚生活の初めの頃、私は、よく「すみません」と言っていたらしい。旦那に何かしてもらって「あ、ゴメンね」。旦那の両親に結婚の挨拶に行き「すみません」。旦那の会社の上司に「結婚おめでとう」とお祝いをもらい、「あ、ぁ・・・すみません、こんなにしてもらってすみません」と言っていたらしい。私本人としては全く自覚はなく、礼儀を欠いたつもりもない。
もっとみる学費・保証人・証明書
私は、中学、高校、大学を卒業させてもらった。この長すぎた学生の間、「学費・保証人・証明書」この3点セットと引き換えに私は自分の親と支配と服従の魔の共依存関係をダラダラと続けてきてしまった。
父がお継母さんと再婚した後、私がもし共学の公立中学に入っていれば。例えば、公立中学に入った私が恐れ知らずの田舎のヤンキーになっていれば。そして家出していれば。そして早々親なんて気にせず生きていくようなずば
五島は優しい 牛までも
私が一番最初に男の人と付き合ったのは、17歳の頃。いつも同じ電車の停留所に立っている男子校の学生だった。ずっと気になっていて、1年半くらいした頃に私から思い切って話しかけた。私たちは、一緒に登校してタイミングが合えば一緒に下校していた。
彼はとても無口で物静かな人だった。私ばかりがいつも喋り、それをニコニコしながら聞いてくれていた。私は毎晩寝る前に小さな紙にその日に思ったことや楽しかったこ