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昭和の終わりの子供たち

 私の体験したような話は、昭和の終わりの地方の自営業の家族にきっとよく起こりうる話なのかもしれない。最近、心的外傷ストレス障害の回復が進んで、昔のことを思い出すのが前より辛くなってきた。だから、ここで自分の幼少期を、改めて母親になった大人の自分の目線で振り返ってみようかと思う。子供の目線で思い出して苦しくなるのではなく、大人の自分の目線であの頃の世界を見返してみるのだ。

私が生まれたのは、1978年、地方の小都市、長崎の市街地だ。私は、1997年に18歳で長崎を離れた。だからあまり詳しくはわからないが、昭和が終わり平成に入ってから10年くらいの間にかけて(つまりバブル崩壊後の1991年から2000年にかけて)私の生まれた町では、本当にたくさんの小さな自営業の会社が倒産・売却・撤退していった。栄枯盛衰。諸行無常。この世は、常に流れて変わっていくものなのだ。

 私の行っていた小学校は、地方都市の繁華街のど真ん中にあった。地方と言えども中心部は、中心部。ドーナツ化現象で子供がいるような家族は郊外に移り住む方が広くて良い家に安くで住めるため、そんな街中に住むのは先祖代々その場所で自営業を営んで来たような人たちが多かった。(ドーナツ化現象とは、経済成長などで市街地の地価が高くなり市街地の人口が減り、郊外の人口が増加すること)だから私が通っていた小学校では、なんと全生徒の99パーセントが、自営業の子供だった。魚屋さん、中華料理屋さん、旅館、スナック、呉服屋、乾物屋、寿司屋さん、自転車屋、美容室、文房具屋さん、カメラ屋さん、歯医者さん、花屋さん・・・様々な小さなお店の子供たちが通っていた。今では、大きなショッピングモールに全ての店が集結して、東京や福岡から来た全国チェーンの大きな企業が大規模展開するのが当たり前の世の中になっている。しかし当時は私の生まれ故郷の田舎町にはまだ大きなショッピングモールはできておらず、小さな個人商店がたくさん営業していた。私が故郷にいた1990年代頃が個人商店が、親から継いだ家業を先祖代々のやり方で普通に営業できるギリギリ最後の時代だったんじゃないかなと思う。

 サラリーマン業をチーム競技とすると自営業は個人競技みたいなものかもしれない。同僚や上司の空気を巧みに読んで会社の中の荒波を上手に泳くサラリーマンと仮定すると、自営業の人は、自分の商売のやり方や主義がはっきりしていて結構キャラが濃い人が、多いと思う。だから、その小学校に通う子供たちは、自営業のキャラの濃い親に育てられ、親同様にそれぞれキャラが濃くて、面白かった。みんなとても個性的で気が強くて、よくわかってないのに商売について語ったりしていた。まるで小さいおばさんおじちゃんみたいな感じだ。親や従業員が働く姿を間近で見ているから、子供のくせに変なところが所帯染みていたり、物の見方や話しっぷりが経営者目線だったり、ちょっと偉そうだったりして、今思い出しても笑える。あの小学校の同級生たちは、ただの友達というだけでなく、何か同じ宿命を味わった仲間という感じがする。同じ時代の同じものを見て育った私たちだけが共有できる不思議な一体感を感じるのだ。「あの頃の街の自営業の家の子供達」みんなの顔が目に浮かぶ。

 うちと同じく旅館を営んでいたかなこちゃん。かなこちゃんのお母さんは私の亡くなった母と同級生で同じ私立の女子校に通っていたらしい。私の母同様、その時代普通だった「お見合い」で結婚した。商売仲間の紹介で知り合った老舗旅館にお嫁に行って順風満帆と思いきや、彼女のうちの旅館も人手に渡った。

 戦後の経済成長が終わって、バブル経済が崩壊して、それまで右肩上がりだった日本の経済は、真っ逆さまに凍りついた。そんな中、計画通りに売り上げが上がらず、たくさんの企業が銀行に借りた借金が返せなくなった。景気が良かった時期に設備費や人件費など投資した地方の旅館は、返済計画が狂っていった。私の地元で大正・昭和に自営で旅館業をやっていた人たちで残っているのはほとんど誰もいないと思う。だいたいが、特に設備投資をたくさんしていた見た目が立派で大きい旅館から次々に立ち行かなくなっていった。

一人だけ商売を人手にも渡さず、破産もせずに、無事に逃げ切った旅館業の同級生が、いた。その子の家は、古い建物の旅館をずっとリフォームせずに古いまま使っていた。古くてボロい建物で旅行客もあまり多くないけど、返す借金もないから少ない利益でも細々やっているというような商売スタイルだったのだろう。そこも最終的には、経営者が隠居するタイミング(いよいよ古すぎて銀行に借金してリフォームするか商売を辞めるかのタイミングでもあったろう)で土地を高くで買ってくれるマンション経営の会社に土地を売って、その代わりにマンションの最上階に住み老後の終の住処とするという生き残り方でおさまっていた。

大きく儲けようとして大きく投資したところは、計画通りに借金を返せずに人手に渡っていった。人手とは、東京からきた全日空や日本航空ホテルなどの大手だったり、老人ホームなどの別の業種で利益を出している会社だったり、外資系のチェーンホテルだったりした。同じ設備と同じ従業員で看板の名前だけが変わって格安ホテルとして営業していたりする。営業困難な地方のホテルが破産申告したところで安く買って最小の投資で経営をスタートさせ利益をあげる。現在の元気なフランチャイズ系のホテルは、そうやって投資を抑えることで利益をあげた金でさらに拡大を続けている。

 小学校の同級生のお醤油屋のさちこちゃんのお父さんは家業が回らなくなり追い詰められて首を吊ったのだという。私の死んだ母の実家も昔は醤油を作って売っていたらしいが、チョーコーとかヤマサとかの大手の醤油屋が出てきて工場で大量生産の薄利多売を始めてから醤油やお酢の値段が下がり、太刀打ちできなくなって早々別の職種に鞍替えしていた。さちこちゃんのお家は、どんどん安くなっていく工場大量生産の醤油の値段にあわせて自家製の手作りの醤油の値段をどんどん下げて売ったそうだ。今なら小さい企業がこだわりの手作りの商品をインターネットで手作りのものが欲しい消費者に直接定価で販売するような販路も確立されてきている。だけど当時は、インターネットも普及していなかった。だから、少ない利益でも節約して我慢して一生懸命営業してなんとか頑張っていたらしい。でも、90年代末、私たち子供世代が高校を卒業するくらいの時期、世の中が本当に不況になり、ついに限界が来たようだ。ご先祖様に申し訳ないとか、自分が死ぬことで保険金が下りて家族が助かるとか思ったんだろうか。ずっとずっと頑張って頑張ってぷつっ・・・と疲れちゃったのかもしれない。今振り返ってみると、時代は、1997年から1999年の「平成不況」と呼ばれる時代だ。「銀行と証券会社は絶対に潰れない」という神話があったにもかかわらず、この時期には、日産生命が破綻し、拓銀と山一証券が破綻した。日本全体が、ぷつっと切れちゃった時期なのだ。

 さちこちゃんは、クラスでいつも1番か2番に良い成績をとる子だった。ピアノも上手に弾けた。クラスが合唱する時の伴奏は、いつもさちこちゃんがやってくれていた。性格も真面目で明るくて、顔も可愛くて、いつも学級委員に選ばれていた。お母さんもお兄ちゃんもいて、彼女は誰の目にも「ちゃんと育てられた良い子」だった。小学生の時の私は、勉強の成績も運動も性格も顔も下の方で、ノロくてボーっとしていて、しょっちゅう忘れ物をするような子だった。ピアノも母が生きていた時に少し習いに行ったけど、なかなか集中して忍耐強く練習できなくて母が亡くなった後は、諦めてしまっていた。前日残した給食のパンを捨てるのを忘れてランドセルに入れっぱなしにしていたら蟻がたかって、クラスメイトに「汚ね〜」と言われた。わたしは、そんなだらしない子供だった。母親になった今、あの頃の子供だった私のことを思い出してみると、私の周りには、経営者の娘である私にお世辞を言ったり、お菓子やおもちゃを買ってくれる父の仕事関係の大人たちや将来の後継ぎの私を甘やかす祖父や祖母はいても、毎日の忘れ物や身だしなみや持ち物を細かくチェックして管理してくれる人が、いなかったのだと思う。でもそんなこと母親になる前の私にはわからなくて、私は小学生から大人になってもずっと自分のことを「私は、だらしなくてワガママで不潔な子だった」という劣等感を持っていた。そんな目立って良いところのない小学生の私から見たら彼女はとても素晴らしくて、羨ましい満点の子に見えていた。だからそんな「満点の子」のシンボルのように思っていた彼女が、そんな強烈な目にあっていたと聞いて「うわぁ、まじかよ、あんな真面目で良い子にそんな悲しい出来事がふりかかるんだ・・・人生っていろんなことが起きるんだな」と人生の残酷さにゾッとした。

 小学校の時、好きだった村田くんは剣道が強くてしょっちゅう大会で優勝したりしていた。勉強も出来て、わたしに苦手な算数を教えてくれたりした。村田くんのおうちはビルを所有して貸しビル業をしていた。彼の住んでいたビルの建っていた土地は政府が買いとり、使用している。彼の家は、借金があって追われたわけでは無いようだ。その後、彼の家族は福岡に移り住んだらしい。きっとあちらの方が企業も沢山あるし仕事も多かったのだろう。

 幼なじみの吾郎くんは、食いしん坊で暴れん坊キャラだった。そっくりの弟といつも真っ黒に日焼けして丸刈り頭で走り回って遊んでいた。いつもお人形さん遊びをひとり静かにやるような子供だった私には彼は激しすぎて苦手な存在だった。吾郎のお父さんはアルコールが入ると度々二人の息子たちに暴力を振るい、アルコールが抜けては自分のやってしまったことにひどく後悔するのを繰り返していたそうだ。そして、ある日ついに住んでいたマンションから飛び降り自殺したという。それもまた1997年から1999年の平成不況の間に起きたらしい。後から聞いた話によると、小さい頃から吾郎君は、酒を飲んだ父親に殴られては、同じマンションに住む知り合いのおばちゃんの部屋に弟と逃げてきていたそうだ。逃げてきた吾郎君は、「オバちゃん、俺、父ちゃんを殺したい、殺したいよ」と膝を抱えて泣いていたらしい。

 いつも丸坊主で日焼けして食いしん坊のジャンアンキャラだった吾郎くんを私はいつも冷ややかな目線で見ていた。「あんたみたいな筋肉バカ男子は、いいわね悩みがなくて」という感じの扱いをしていた。だから吾郎くんのお父さんが亡くなった話を聞いてとても驚いた。

 そういえば、高校生の頃、通学路が一緒で吾郎くんと一緒に電車に乗ったことがあった。いつも朝から晩まで親に干渉されて怒られる生活にうんざりしていた私は電車に乗って吊革をにぎると「ハァ〜」ってため息をつくのが癖になっていて、そんな私を見ていた吾郎くんは「なんばため息つきよっとか(笑)」と言っていた。私は不機嫌そうに「私は、疲れとるっさ、もうっ・・・ほっといてよ」と言った。その数日後、吾郎君が同じようにつり革につかまり「ハァ〜」とため息をついているのを見て「あんた、ため息つきなさんなよ」と言ったら、吾郎君はすごくムキになって「お前だってしょっちゅうため息つきよるじゃなかか!!」と珍しく私に怒った。その時は、「やべ、そうだった・・・」とハッとして恥ずかしい気持ちになった。今思えば、あの時、吾郎君は酒を飲んで暴れる父親のせいで夜も眠られずに疲れて、うんざりしてため息を漏らしていたのかもしれない。私は、自分の寂しいことやつらいことにいっぱいいっぱいで、吾郎くんがそんな目にあってるなんてこと全然思いもつかなかった。そんなに身近なところに自分と同じように家庭内に居辛さを感じている子がいたなんて。もし知ってたら、そんなにいっつもふてぶてしい態度とらなかったのに。もうちょっと優しくしてあげればよかった。

 昭和の終わりは、日本の経済の成長の終わり。そんなタイミングで地方都市の小さな町に生まれて育った自営業の子供たちの幼少期は、私だけでなく、きっとどれもそれぞれに波乱万丈だったのではないだろうか。あの頃の小さな子供達が、人生の変化に翻弄されながらも今はそれぞれの安心できる場所を作って安らかな気持ちで生きていてくれることを心から願う。


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