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謎の生きづらさの正体

 自分がどうなりたいとか、子供をどうしたいとか、親がどうしてほしいとか、兄弟をどうにかしたいとか、恋人をどうしたいとか、そういうことから離れて生きることができたなら、なんと楽なことだろう。思い浮かべるだけで呼吸が楽になり、目の前が明るくなるような気がする。

 ある日、自分という種が偶然この世の土に蒔かれて、芽が出て、それが育ち、いつか死ぬ。私たち人間を種と例えるなら神様はこの空だ。空は変わらず私たちの上にいつもある。私という芽が、生き生きと芽吹いたり、または腐りそうになったり、曲がって伸びたり、迷って右往左往している間にもただこの神様という空は私たちの上に常に淡々と存在し、私たちを見つめている。もしそうだとしたら?私たちは、「監視・管理・教育されている」のではなく、「批判され・評価されている」のでもなく、生まれて生きて死ぬ様をこの空に「ただ見守られている」と感じるように生活することができたのなら?それは、とても穏やかで心地よい静かな世界だ。自分の中に神様を持つということは、そういう風に「ただ見守られている」中で生きる日々を重ねることなのだ。

 それは、私の父のように自分の親に必死に尽くし続けて承認の見返りを求め続けることでもなく、私のお継母さんのように継子を追い詰めてコントロールして言うことを聞かせ自分の存在の意義や正当性を誇示することでもない。また私のように誰かに認めてもらうために常に落ち着きなく必死で努力し続けて自分以外の「みんなの理想の誰か」になろうとすることとも違う。

 幼い子は、自分の存在ありのままを見守ってくれる神のような存在を母親や父親に見いだそうとする。運良く精神的に安定した親の元に生まれた子は、「見守られる(=肯定されること)」ことを身を持って体験し、その感覚を無意識に身に付ける。そして、身につけた「自己肯定感のお守り」と「自分を大切にするという価値観」という二つの定規を手に、その後の自分の人生を自分を自分で大切にし、守りながら、逆に害をもたらすものを避けるようにして、しなやかに生きぬいて行く。

 しかし、すべての子どもが運が良いこばかりでは、ない。精神的に未成熟で不安定だったり、依存症だったりする親の元でも子供は生まれる。そういう親の元で生まれた子は、ただ何かに見守られている自己肯定感や自分を大切にすることを基準とした物差しを持つ事を禁止されて育つ事になる。存在するだけで自分を肯定する自己肯定感は「努力をしていない」「怠けている」とみなされ、自分を大切にする価値観は「わがまま」で「自分勝手」「生意気」とみなされる。そして、そういう子が大人になり社会に出た後、自分で自分を守り愛しむ選択ができず、逆に自分を厳しく律したり追い立てて追い詰めたりする人生の選択をしてしまう。親から離れてもなお、親が自分にしたように、今度は自分で自分自身を緊張に追い込んでしまう。そして、そんなに頑張っているのに認めてくれない周囲に怒りを募らせたり、自分のように自己犠牲的な価値観で動かない人々を見ては「ずるい」「なんで?あんな奴らがいい思いをして自分はいつも貧乏くじを引く?!」と怒りを募らせる。それが、機能不全家庭に育った子供たちのその後の生きづらさの原因だったのだ。

 大切な家族の突然の死・病気・災害・経済難・事件・・・人生には、本当にいろんなことが起きる可能性がある。それらを乗り越えていくには、自分で自分を応援してあげなければ到底無理なのだ。たとえうまく乗り越える知恵が働かなくても失敗しちゃったとしても、とにかく自分で自分を応援してあげないことには、人生は辛すぎるのだ。

 自分で自分を応援するとは「これをできないとお前に生きている価値はない」「こんなこともできねぇのなら、お前死ねば?」と恫喝して逃げ場を封じて袋小路に追い詰めることではない。機能不全家庭に生まれた子供たちは、応援と恫喝を履き違えている。応援とは、自分を斜め上から見下ろして、たとえ自分が失敗しても「いいぞ、いいぞ、その調子だ!よくやってるよ!大丈夫、次、次!」と自分に言い続けて見捨てないであげることだ。

 自分で自分を大切にするとは例えば、あなたを悲しませる行為をやめない人や物から離れることだ。あなたに暴力を振るったり、浮気を繰り返したり、約束を何度も破ったり、嘘をついたり、そういうことをしてあなたを何度も何度も泣かせて悲しませる人間がいたら、あなたはその人から離れてもいいのだ。ひょっとしたら、その人は、あなたが自分から離れることをやめさせるために「捨てないで」「裏切り者」「逃げられると思うなよ」「不誠実」「不真面目」「常識がない」「世間の目が恥ずかしい」「こうなったのは全部お前のせいだからな」「責任を取れ」「恩を返せ」・・・などと言うことを言ってくるかもしれない。もしくはあなた自身の頭のなかでそういう声が繰り返し聞こえて罪悪感や嫌悪感で身体中が満たされるかもしれない。そして自分が、囚われている籠から飛び出して自分自身の人生を生きることをずっとずっと先送りにし続けるかもしれない。

 だから、今、私はあなたに言いたい。あなたが苦しくなくなるまで、あなたが怖くなくなるまで、あなたのそばでただあなたを抱きしめてあげたい。そしてあなたの頭の中で響いているあなたを否定する言葉をかきけすように言い続けてあげたい。自分を傷つけたり疲れさせるものから離れることは、全く悪いことではないよ。それは逃げることや裏切ることではない。それは、自立して本来の人間の健康な生き方に還る行為なのだ。あなたがその場から離れることで、鎖に繋がれたあなただけでなく、鎖であなたをつないでいる人も自由になれるのだ。ただあなたを繋いでいる人は、あなたに依存することに慣れ過ぎていて、鎖を外して一人で外の世界に行こうと決意したあなたほど変化をする準備が出来ていない。だからワーワー騒いでいるだけなのだ。

 あなたが手放した人が、あなたがいなくなった後途方に暮れて孤独になろうとも、それはあなたの責任ではない。その人の人生の選択なのだ。あなたには、その人の人生をどうこう思うように操作したり、責任をとることはできない。依存する対象だったあなたがいなくなることで、その人は自分をあなたへの依存に突き動かしていた自分の中の不安の存在に初めて気付くことができるかもしれない。認めることができるかもしれない。それは苦しいかもしれないけど、その人が生き続けるために必要なことなのだ。そして何とかしてそれを癒し、本当の自立と安心した日々を手にするかもしれない。これからのあなたの人生があなた次第であるのと同じく、全てそれは、その人次第なのだ。

 あなたが自立したことで、体裁や世間体を気にするまわりの親戚や友達や近所の人が、あなたのことを悪く言ったり責めるかもしれない。あなたは、その度ごとに自分が理解されないことに泣き崩れ、自分の選択が正しかったのか、自分で自分を疑うかもしれない。でも、そんな時こそ自分を応援して持ちこたえて欲しい。自分の中の自分を否定する声に押し潰れそうになったら、自助グループや信用のおける医師に話をして、自分は一人じゃない・みんな応援してくれていることを感じて。走ったり、踊ったり、歌ったり、歩いたり、山に登ったり、体を動かして血流を良くして呼吸をして体にたくさん酸素をとりこんで。そうやって自分を大事にすることを繰り返して欲しい。そして依存に引き戻されないように1日、あと1日、もう1日とやりきってみて。数年経って周りを見渡せば、あなたのことを悪く言う人など誰もいなくなるだろうから。共依存から身を引くと絶対的に良い結果しか生まない。それくらい共依存は、人間を蝕む見えない病なのだ。空が、見ている。神様は、見守ってくれている。



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