生きることと蟹工船に乗ること何が違うんだろう
2020/05/06 メモ 思ったことの羅列です
もう生まれて生きて死ぬこと自体が蟹工船に乗ったようなもん。別に好きで生まれきたわけじゃないのに、死ぬまで生かされて(理不尽に呼吸と終身契約結ばされて生存労働させられて)、自然と死ぬのを待つのが長くて辛ければ自分で死ぬしかない。どこに行くかわからない船に乗らされて、くたばるまで働かされる、理不尽にきれられる、自分で勝手には降りれない。ほら、生きることそのものやん。途中下船できない労働するしかない蟹工船、離脱できない生存労働を強いられる生というデフォルト状態。はやくここからずらかりたてぇ~
別に好きで生まれてきたわけじゃないじゃん?別に好きで蟹工船に乗ったわけじゃないじゃん?生活のために仕方なくじゃん?誰も生まれてきた後の事なんて知らないじゃん?誰も乗る前にこんなにも過酷なことが船内で起こるなんて知らないじゃん?生まれてきたからには、つらくても簡単にこの世界から離脱できないじゃん?乗ってしまったからには、しんどくても下船できないじゃん?唯一生きるのを止める方法は死ぬことじゃん。船内で労働を止めるには息の根をとめられるまで反抗してボコられて死ぬことじゃん。途中下船を簡単にできないこの世界という船に乗ったようなものなんだよ。
慣れとか習慣ってすごいけど、すぐその状態から脱せられるね。風邪で数日まともに投稿してないだけで、正直どっかnote投稿めんどくさくなってる自分がいる。めんどくさいというか、なんでわざわざ自分やってるんやっけ、って一瞬手を止めてしまいそうになる。12月22日からはじめて、毎日更新がいつの間にか続いて、やらなきゃいけないもの、しないとすっきりしないものになってきて、投稿するのがデフォになってたけど、一旦数日とまるだけで、習慣ではなくなって、あれっなんで自分こんなに必死になってるんだっけ、別に個人の趣味なんだからこんなことやめても誰も困らないし、どうでもよくね?みたいな気持ちがちょっと出てきたりする。ここ最近、一日に数本投稿することもあったりして、閲覧数やフォローして下さる方の数が増えたがために、もっと頑張らなきゃって思ってたけど、なんでもっと頑張らないといけないんだろう、だめだ、またわかんなくなってきた。これがわかんなくなってしまうと、わたしすぐやめちゃうし、手が止まっちゃうんだよな。唯一毎日やってることがこれしかないから、今ここでしなくなると自分何もしてないことになってしまって、それだけがただ怖くて今日も投稿しよう、みたいな消極的な理由が増えてきたかも。やばいぞ自分。
みんなが自己肯定感低ければ低い状態がデフォになって、それはもう低いと呼ばなくなるのかな。だとすれば、私も低くない気がしてきた。
リスカ、半袖着て見えてても、親に何もツッコまれないともう別に傷増えても大丈夫かなと一瞬思ってしまう。親に見られたらめんどくさいってのがストッパーになってたけど、おそらく気づいててあえてだろうけど、何も言われないなら、やめなくてもよくねって思ってき始めた。
人口考えれば、chineseって海外で知らない人に前触れもなくいわれてもしゃーないみたいな言い分あるけど、でも誰も日本に来た西洋人に向かって、おーいアメリカ人とか言わんくね?Japaneseやって訂正するかいなかの問題ではなくね?もうそれ。見知らぬ人間を遠くから所属国名で呼ぶなよ。
何でもやったあとにしかその後の光景はみれないから、どっちがいいとかマジで言えないよな、よっぽど負の理由がなければ、やらないほうがよかったとか言えなくね?どっちにしろ、やってみないとわかんないし、やらないという選択もやってみないとどうなるかはわからん。だから、無駄にやってみた奴を持ち上げたり、やってよかったやろみたいなストーリー作りすぎるのよくない。
コンプレックスしかなさ過ぎて、逆に何がコンプレックスなのかわからないのと、もう逆に全部コンプレックスではない、この二択に私はふれるな。
別に私病んでないんだよなぁ。シンプルにそういう思想なだけ
私なんぞにご支援いただける方がこの地球上におりましたら、もう控えめに言ってあげみざわエクスプローションします。