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「才能」とか「努力」とか「頑張り」とか、もう何もわからないから考えるのをやめることにした

結論は目次一番下の


「じゃあ結局、「才能」「努力」とは何なのか」にあって、あとはそれまでの思考の経緯や思っていることを6,000字くらいで書いてます


なんだかこの記事

が伸びており、かなり驚いています。

読んでくださった方、スキを押してくださった方、コメント、フォローしてくださった方、ありがとうございます。

ここまで反響があるとは思っていなかったので、注目を浴びることによる喜びはあるものの、しかし自由なことを書けなくなるのではないか(それは自分で自分を勝手に縛り付けているだけかもしれませんが)、突然の暗黒記事やメンタルブレイクした時の感情ぶちまけ、ニッチなオタク記事を手軽に投稿することが難しくなったか? と思うと少し寂しくもあります。

もちろん、だから読むな、とかそういうことを言いたいのでは全くなくて、なんでしょう、初めての状態と感情なので、色々と戸惑っております……が

感謝 8: 2 戸惑い

なのでありがとう、の方が大きいのは確かですd( ̄  ̄)

……さて、前回の記事

で「音楽に集中したいからしばらく何も書かないかもしれない」となんか宣言しましたが、ずっと音楽だけと向き合っていてもなんだか気持ち悪くなってきてしまうので、やっぱり何かを書くことにしました。

いつかの記事で言った気がしますが、やっぱり複数の表現手法を持っているのは気分転換をしつつアウトプットも継続できるのでお得だなぁ、と感じます。

今回書こうと思うことは、タイトルの通り

  • 才能とか努力とか、もうわからんから考えるのやめた

ということです。
最近、というかもう忘れてしまいましたが、それくらいからずっとこのことについて考えてきました。

多分noteにもあれこれ書いています。が、しかしどの記事にどんなことを書いたのか覚えていないので、引用ができません……(覚えてるのもあるけど面倒なんだ、、)
もしご興味がある方は、それっぽい記事を漁っていただけるとわかるかな、と思います。

そして、「才能と努力」についてなんだかある程度の区切りがついたぞ、というか、もうこのことについてこれ以上考えることはできないのではないか、という何か手応えのようなものを感じたので、思うことを書いていきます。

ちなみにアイキャッチ画像は、新曲で使えるかな、とてきとーに描いてみたものです。作りかけですが一応曲も載せておきます。

達成したいことがあるなら、ただやればいいだけでは?

というのが、今思っていることです。

……こういう書き方をするとまぁまぁの人がここで記事を離脱するのではないかなぁと思うのですが、人に良く思われたいために文章を書いているわけでは全くないので、持論を展開し続けます。

まず、これまでの記事をお読みいただいている方なら周知のことかと思いますが、僕は「努力」とか「気合い」とか「根性」とか、そういう体育会系のノリみたいなのが大嫌いなタイプの人間です。

「みんなでウェイ」とか「熱くなろうぜ」とか、無理無理やめてくれよってなるやつ。

その上で。
努力や才能といった言葉が登場する時というのは、何か到達したい目標や理想がある状況だと思います。

そしてそのために「頑張る」といったことをするのだと。

が……これがなんだかどうしてもよくわからないな、というのが、様々な思考を経てきて感じている正直なところです。

よくわからないというのは、

  • 達成したいことがあるのなら、ただ必要なことをやればいいだけであって、わざわざ「努力する」とか「頑張る」とか言う意味なくない?

ということです。

ゲームをしたり友達と遊んだりすることに「頑張ってゲームするぞ!」とか「頑張って仲良くしよう!」とか思わないじゃないですか。

ゲームをするのはそれで遊びたいと思ったから、それが好きだから自発的にやっているだけだし、友達と集まるのも同じ時間を過ごしたいと思ったからですよね。

”頑張って”遊ぼうとするゲームってそれは娯楽ではないし、”頑張らないと”楽しく過ごせない関係ってそれ友達じゃないだろう、って。

例としてゲームと友達というわかりやすいものを挙げましたが、全ての物事って、これと同じだと思うのですよ。

行きたい大学があるなら勉強すればいいし、痩せたいなら食べないで運動すればいいし、人によく思われたいなら見た目や振る舞いに気を使えばいい。

達成したいことがあるのに必要なことをやらないというのは、本当はそれを叶えたいと思ってないんじゃないの? と。

僕が大したことないことにしか挑戦してないのか、恵まれているのか、わからないけど、でも、本当にやりたいならやるでしょ、というのはいつも感じていることです。

ゲームをすることと、勉強をすることは一体何が違うの?

……わざとこういった書き方をしています。
でも、本音です。

本来”勉強”というのはとても楽しいことだと思うのですよ。

知らないことを知るのは楽しいし、自分の興味の赴くままに何かを学ぶのは、本当にワクワクするし、知識欲が満たされて興奮します。
これは動物の中でも、言語を持つ、人間というものだけに与えられた特権ではないでしょうか。

それなのに「勉強はつまらない」と思ってしまう人が多いのは、完全に日本の教育システムの欠陥であるなと。
特にその元凶でありそうな、大学受験勉強がつらいってのが間違っていると思うのです。

本来、大学というものはその学問を専門的に学びたいと思うから行くのであって、人生のモラトリアムだとか、なんかとりあえず行くって発想がおかしくないかと(これは自戒を含む↓)。

大学で学ぶことの意味や意義、その後の展望も何も考えず、興味の持てないことを詰め込もうとしてもそりゃ面白いわけがないでしょう。苦痛で当たり前です。

で、そこで「”頑張って”勉強しよう」「もっと”努力”しよう」といった発想になったらそれは極めて危険ではないかと。
一体何のために時間を費やしてるのか。嫌ならそれは向いていないということだからやらない方がよくね? と。

もちろん、現在の社会の仕組みやその後のことを考えると、あまりこういった理想論のようなものばかり展開していても効果は薄いのではないか、とも思います。

でも、やっぱりそれでもなんか違うよな、というのは紛れもなく感じていることなので、ここに書き残しておきます。

”頑張ら”ないといけない世の中ってとても息苦しいと思う

本当にこう思います。

”頑張る”のが好きな人は勝手にそうすればいいし、”努力”が好きな人も勝手にそうすればいい。

とにかく、それを人に押し付けるなよ、と。

なので、僕は人に「頑張れ」とか「努力しろ」とか絶対に言いません。
自分が言われたくないのもあるし、何よりそういった価値観が社会全体に蔓延すると嫌だから。

ギスギスし始めると思うのですよ。みんなが常にピリピリしていて、ちょっとしたことで怒って、人を攻撃して。そうなったら、一体何を目指しているのか、何のために生きているのか本当にわからない。

そんなことを言うのなら、僕は常に”努力”しているし最大まで”頑張って”いる

単に「頑張れ」という言葉が好きじゃない、ということもあります。

そう声をかけてくれる人の気持ちはわかるけど、なんか素直に受け取れない。
受け取り方を色々考えて試してみたけど、気になるものはやっぱり気になってしまって。

「あなたのことを応援している」という意味で、”頑張る”という表現にはどこか苦痛を強いるようなニュアンスがあることを理解していて、それでも「頑張れ」という言葉を選択しているのか。それとも本当に僕が「努力」不足だから発破をかけているのか。

前者ならなぜその言葉を選んだのかを教えてほしいし、後者であるならば、「頑張れ」ではなく、「それは達成するのが不可能に近いから、諦めた方が効果的だと思う」と言ってくれた方がものすごくありがたい。

僕は脳の構造

的に、やるなら徹底的にやる、やらないなら全くやらないという人間なので、何かを始めた時は自分の持ちうる力の限りで必ず限界まで考えて、行動パターンを練りに練ってから実行に移しています(たまにそうじゃない時があるけど……)。

そしてこれは必要だからやっているだけです。なんでしょう、喉が渇いたから水を飲もうみたいなノリ。

なので、このことが一般に”努力”、”頑張る”という意味ならば、常にめちゃくちゃ努力しているし、限界まで頑張っています。
だから「頑張れ」と言われても「いや、すでにやってんだけど」と思ってしまうだけなのです。

(ちょっと違うかもしれないけど、被災地の方などに「頑張れ」とか言っても迷惑でしかないから、黙ってお金を渡すだけがいいんじゃないの、といつも思います。あの状況で”頑張って”ない人なんているわけないでしょ)

そもそも、やりたくないと思ったことはやらないし、人からなにかをやれと言われても嫌ならバシバシ断ります。それで嫌われたとしても、まぁ仕方ないかとしか思わないし。
外発的要因に左右されることが特にないというか。褒められたいだとかすごいと思われたいといった欲求も特になくて。

だからいつも、自分で何かをやりたいと思ったから勝手に行動しているだけなので、それを「頑張ってる」とか「努力してる」とか「すごい」とか言われても、「いや、やりたいからやってるだけっすよ」と思うだけなのです。

それに最初はやりたかったことでも、向いてないな、嫌になったな、飽きたな、と感じたらあっさりやめます。

なので、別に特に何かを努力してるとか頑張ってるとかないよ、ということです。

”努力”して何かを達成したことがあると、人を下に見るようになる

これが一番良くないと思っていることです。

何か苦しいことを我慢して我慢して、とにかく耐えて耐えて……みたいなことを連続して人生を過ごしてくると、それが人生だと思っていると、それを経験しないでうまくいっている人を攻撃するようになるのです。

言い切ったのは、そういう人をそこそこ知っているから。
……それは他者に限らず、過去の僕でもあります。

これ

を読んでいただけると大体わかるかと思いますが、

好きなことを専攻にしていればこんなことは全く起こらないわけです。

そもそも、物事を気合いでどうにかしようと思うほどに追い込まれてしまう時点で、それは向いていないことだと思うんですよ。

どう考えても完全に向いていないことを「頑張って」「努力」していたので、常にストレスでイライラしていて、人に八つ当たりをして、そんで大学に入ったら入ったで「一般受験? 総合型?」と手当たり次第人に聞いて総合型だとわかったら内心めちゃくちゃバカにする、という最悪のやつでした。

今では、入試方法なんてそれぞれ勝手に選べばいいだけだし、各選抜に貴賤などないし、好きなことをやればいいじゃん、としか思っていません。

ちなみに、これは恥ずかしいので書いてこなかったのですが、日商簿記3級ってあるじゃないですか。この資格を持っていると授業を受けなくても単位をもらえるというものがあったので挑戦したのですが、2回目の方が点数が低くかったのです(つまりは1回目もダメだったということ)……。
全く興味が持てないからストレスでしかないし、どんなに「頑張って」「努力」しても結局無理でした。

とにかく、前の大学では全てを含めて、「頑張った」にも関わらず、良い結果と言えるものでは全然なかった。

この苦い経験(その節は関係者の人に多大なるご迷惑をおかけしました。ごめんなさい)があるから、今の思考になれたのかもしれないです。

この記事の冒頭にも貼ったものですが、今はやりたいこと、好きなこと、そして恐らく向いているであろうことを勉強しているので

とても楽しいです。
作編曲は6時間くらい没頭してできるし、ピアノも1時間くらい弾き続けられる。楽典のテキストを読むのもなるほどそうか、と楽しみながら読み進められる。

こうして文章を書くのも好きだから書いているし、あれこれ考えるのも好きだからあーでもないこーでもないと一人でごちゃごちゃやっているだけです。

最近始めたイラスト(と呼べるクオリティなのかは全くわからない)も、おー、これは楽しいな、上手くなりたいな、と思っているだけで。

最近全然書いてないけど、小説(のようなもの)も書きたいと思っているから書いているだけだし。

嫌だなぁ、やりたくない、やめたい、つらい、とか思ったことないです。そりゃたまに面倒に感じることはあるけど、それは気分だからそういうものであって、やっぱり好きだからやっているだけ。

ちなみに向いていることを見つけるには、とにかくローラー作戦的に片っ端から試すしかないのではないかと思います(これもなんだったかの記事に書いた気がするけど忘れた……)。

「好きだから、向いているからやっているだけ」

  1. 「好きだからやっている」

  2. 「向いているから(なんかいい感じにできるから)やっている」

  3. 向いてないことはやらない。諦めることをもっと大切にする

  4. 嫌ならやらなきゃいい(やらなくていい方法を最大まで考える)

これしかないと思うのです。

もちろん、全てが好きなことであるわけはないです。そんなもの存在しない。どんなに好きなことでも嫌な要素は絶対に存在します。

でも、本当に好きなことであれば、その”嫌なこと”をも含んで好きになると思うのですよ。
もがき苦しみながらもそのことと向き合い続けた時間は必ずその後のためになるし、活きてくる。すると、そのつらかった経験も含んで好きになる。

例えば僕はこうして文章を書いたり曲を作ったりしている時、思ったようにできないと、マウスをモニターにぶん投げたくなる衝動に駆られることがあります。
でもそんなことをしても何もならないことをわかっているし、何よりそれを乗り越えた後にできるものが本当に本当に好きなので、続けているわけです。

全ての物事、学業、仕事って、こういうものだと思うのです。

「頑張らないと、努力しないと」できないなら、それは向いていないので、やらないほうがいいんじゃないの、と声を大にして言いたい。
目標が間違ってるので、さっさと諦めることでその後の人生を効果的に過ごせます。

”努力”でゴリ押そうとする人は、現実逃避してるだけなんじゃないの、思考することを放棄してるだけんじゃないの、自分の弱い面を見ないようにしてるだけなんじゃないの、と。

諦めるというのは非常に大切で、そこをしっかり受け止めないから、おかしなことになるのです。

完璧な人間など存在し得ないし、誰もが必ず何かできないことがあるし、絶対に何かを諦めているし、悔しくて泣いているし、心を壊して眠れない夜を何日も過ごしている。

諦めるという言葉が僕は好きです。皮肉でも何でもなく、「平和」と同じように好きな言葉。
なぜならそれは、人間の有限性を認めた上で、また何かに挑戦しよう、これからも生きていこう、という姿勢の現れだと思うから。

じゃあ結局、「才能」「努力」とは何なのか

うーん、なんもわからん! というのが今の時点で思っていることです。

ただ、それでもわかっていることがあって、それは

  1. 「才能」で達成可能な割合が多いほど余計なストレスを感じないから楽だ。

  2. 「努力,頑張り」の割合が多いほど無駄なストレスが多いから疲れる

  3. そしてそんなことはマジでどうでもいい、目標があるならただやればいいだけ

  4. あまりにもつらいならそれは目標設定を間違えてる。諦めたほうがいい。

ということです。

こんな暗いものを描くつもりは当初なかったのですが、なんかいつのまにかこうなりました

(´・ω・)つ旦