見出し画像

パワハラ死した僕が教師に転生したら 18.死に至る速度

第1話はこちらから
前話はこちらから

 教師の12回目の社会の授業。
 重苦しい表情の小柄でやせた教師が教壇に立っている。
 生徒達全員の顔を見つめ、深呼吸をした後、いつになく真剣な表情で授業を始める。
 
「今日は僕の授業の中で一番大切な話をします。長時間労働やパワハラが続くと、一部の労働者はうつ病という心の病気にかかる。これは、誰にもでも起こりうること、全ての年代の労働者に起こりうることです。もしかしたら、みなさんのご両親やご親戚にも経験された方がいるかもしれない。そしてこの病気にかかると、希死念慮、自殺したいという強い欲求が生じる。そして自殺までがあっという間のケースもある。だから、みなさんは、社会に出てそういう兆候を感じたら、すぐに病院に行って診断を受けて下さい」と教師が言う。
 
「・・・・・これから、前世の僕に起きたことを話します。とても苦しい、忘れてしまいたい記憶なのです。前世の僕はうつ病の知識がなく、病院に行かなかったのですが、今思えば重度のうつ病、症状が現れてから1か月で自殺しています」
 
 目を瞑り、深く息をした後、ゆっくりと話を続ける教師。
 
「終着駅に配属されて1か月近く経った頃、僕は、休日なしの長時間労働やひどいパワハラが、他の店に異動になるまで何年も続くかもしれない、それが現実だろうと、状況を受け入れるようになっていました。
 そして、気分がひどく沈み込んだままになってしまった。
 それまでは気持ちの浮き沈みがあったのです。ひどい毎日でしたが、店長とシフトがずれてパワハラを受けなくて済む日は気が楽だったし、店長からのパワハラが終わり、反省文を書き終われば、一応の安堵感はあった。とにかく今日を乗り切った、そして今は一人でいられるという安らぎを感じていたのです。日常のちょっとしたこと、音楽を聴くとかスマホで何かを読むといったことで、少しは気分が良くなっていた。でも、その頃から、そういうことがなくなり、気分が深く沈み込んだままになってしまった。そして、これから良いことは何も起こらないだろうと思うようになり、それを当然だと思うようになった。
 そして、一人になると、涙が出るようになった。電車の中で、勝手に涙がこぼれた。アパートでも、店で始発電車を待っている時も、そうなった。自分が惨めて、悲しくて泣いていたのだと思う。でも僕にはその感情が良く分からなくなっていた。そして、僕は怯えていた」
 
「それから1週間位経って、僕に色々な変化が生じ始めました。
 僕は夜明け前に目覚めてしまうようになった。僕は休日もなく毎日長時間労働を続けていて、全身が疲れ切っていた。いつもひどい動悸がして、少しでも多くの眠りを求めていた。だけど、毎朝4時頃に必ず目が覚めてしまう。そして、そこからはもう眠ることができなかった。疲れ切った体のまま、アパートのベッドや店の客席のソファで横たわって動かずにいると、やがて夜明けが来ます。それはいつも、鉛のようにひどく曇った、重苦しい灰色の夜明けだった。
 そして僕の中に、これまで感じたことのない小さな不安と絶望が居着いていた。それまでも、パワハラがずっと続くことへの不安や絶望を感じていた。でも、この時に感じたのは、それとは全く違っていた。それは原因も理由もなしに、それだけで息づいているようだった。僕は怖くなり、それを必死に抑え込もうとした。けれど不安と絶望は、消えることがなかった。胸に錆びた鉛を詰め込まれたようだった」
 
「店では金属のトングがボールに当たる音や、ナイフやフォーク、スプーンがぶつかる音が耳に障るようになった。そのうちに、金属のぶつかる音が耳の中で鳴り響くようになり、頭痛が続くようになった。客席の会話も苦痛でたまらなかった。
 アパートに戻ると、店の制服を洗濯機に放り込みシャワーを軽く浴び、ベッドに横たわり一刻も早く眠ろうとした。だけど、上手く眠れなかった。夜中にようやく眠れても、夜明け前に必ず目が覚めてしまう。疲れは全く取れず、身体に溜まり込んでいった。
 それでも、重い体を引きずって、這うようにして店に行き、朦朧としながら働き続けていた。
 不安と絶望は、少しずつ大きくなって行った。いつも気持ちが全く落ち着かず、決して出ることのできない暗闇にいて、誰かから追われているような気がしていた。店でも、電車でも、アパートのベッドの上でも、ずっとそうだった。僕は震えて、ひどく怯えていた。でも、何に怯えているのか、全く分からなかった。胸に詰め込まれた鉛は膨らみ、僕を圧倒していた。
 近くにいる店長やアルバイトが遠くにいるような気がした。自分だけが暗闇の中にいて、そこから彼らを眺めているようだった。そして、厨房も、客席も、外の景色も、電車から見る風景も、アパートの部屋も、そこから見える空も、何もかもが、灰色に見えた。
 店長からのひどいパワハラは続いていた。だけど、殴られても、土下座をしても、ひどく自己を否定する反省文を書いても、何も感じなくなっていた。
 無数の腕から伸びる金属の骨ばった細長い指に胸を突き刺される夢を見るようになった。恐怖で目覚めた後も、心はずっと夢の続きにいるようだった。ますます眠れなくなり、身体は疲れ切り、沈み込んでいくようだった。アパートの部屋にはコンビニの弁当の食べ残しが散乱していて、ひどい臭いを放っていた。ゴミを片付ける気力はどこにも残っていなかった。
 それでも僕は毎日休みなく店に出て、長い時間働いた。この会社が最後だ、この会社を辞めたらどこまでも転落してしまう、絶対に踏みとどまらなければならないと思っていた。
 次第に不安と絶望は、どこまでも大きくなり、僕の心を占領していった。それは太い根を張り巡らし、他の感情を吸い尽くし、僕の心はそれだけになってしまった。心はひと時も落ち着かず、暴れ狂い、無数の凶々しいナイフの嵐に抉られ続けていた。それは本当に胸を抉られるような痛みがあった。いつでも、どこにいても、何をしていても、僕は暗闇の中にいて、心は晒され、抉られ続けていた。僕は怖くて、苦しくてたまらなかった」
 
「ある日、僕は夜中過ぎに眠り、いつものひどい夢を見てすぐに目覚め、しばらくしてからまた眠り、夜明け前に目覚めた。アパートのベッドの上から、いつもの灰色の夜明けを見ていた。そして僕はようやく、自分の中にずっとあった欲求を理解した。
 
 死にたい
 
 それが言葉になってしまうと、それからずっと、僕の心は悲鳴を上げるように、死にたいと言い続けた。
 
 ・・・・・駄目だ、死んでは絶対に駄目だ・・・・・僕はそう思って毎日、ひどく重く痛んだ体を引きずって店に出た。
 でも、この言葉は止まなかった。店の中で何をしていても、この言葉が聞こえてくる。電車の中でも、アパートの中でも、そう言い続けている。
 過労で動けなくなり、僕は厨房で座り込んでしまい、店長に殴られる。朦朧として何度も調理を失敗し、店長に殴られる。何も感じなかった。このまま殴り殺してくれればいいのにと思った。僕には、不安と絶望、そして、死にたいという欲求しかなくなってしまった。他には何も感じず、何も考えられなかった。僕は、一人でいる時、死にたい、とつぶやくようになった」
 
「僕は自殺の方法をスマホで調べ始めた。でも、自分が死ぬ瞬間を、自分が消えてしまうことを想像するととても恐くなった。そして涙がぼろぼろとこぼれた。死を強く望みながら、どこかに生きたいという気持ちが残っていた。結局、僕は、自分の死に方を探すことができなかった。僕は、死にたいと思いながら、いつも生きたいと泣いていた。
 不安と絶望はもはや感情と呼べるものではなくなっていた。暗闇の中で吊るされ、見ることのできない誰かから首と胸に錆びた釘を何百本も打ち込まれ息が止まる寸前までの一瞬一瞬が延々と繰り返されているようだった。心はのたうち回り続け、心臓は鉛の両手に握られた中で怯え、激しい鼓動を続けていた。全身が痛み、恐怖に震えていた。鈍重でうねるような頭痛とともに、吐き気が止まらなくなり、ようやく胃に流し込んだ少しの食べ物を吐いた。それを見て思い出した、蛆虫だ。何度も反省文に書いていた。僕は蛆虫だ、全て僕が悪い、僕には生きる価値がないと。その通りだ、蛆虫は踏み潰されて死ぬ。逃げられない、逃げられるはずがない。大勢の人間が必ず踏み潰しにくる。社会の誰もが僕を踏み潰しに来る。心は死にたいと言い続けていた」
 
「あの夜、僕はいつものように店長から何度も腹を殴られ、土下座をさせられ、頭を踏みつけられ、何度もすみませんでしたと大きな声で言った。そして彼が帰り、僕は一人で店にいた。疲労と痛みが刻み込まれた体をなんとか支え、客席のテーブルに向かい、反省文を書こうとしていた。しばらくの間、ペンを握っていた。でも僕は、書くのを止めた。
 
 ・・・・・もういいじゃないか。十分、頑張った。精一杯やった・・・・・それは間違いなく、絶対に、本当のことだ。
 
 そう思うと少しの間だけ、とても静かな気持ちになった。僕はしばらく店で眠った。夢は見なかった。そして、いつものように夜明け前に目を覚まし、暗い街をさまよい、古びた高いビルを見つけ、非常階段の入口の柵をよじ登り、息を切らしながら一瞬も止まらずに階段を駆け上がり、すぐに青い闇の中へ飛び降りた。
 終着駅に配属されて2か月が過ぎた頃、僕が四十になってから数日後のことです」
 
 真っ青な顔の教師が、震えるような深呼吸を何度も繰り返している。
 
「・・・・・いいですか、こういうことは誰にでも、みなさんにも起こりうる。社会ではこういうことが山ほど起きているのです。僕はみなさんに、前世の僕のような最期を迎えて欲しくない。自殺なんて馬鹿げたことです。普段ならそのことが分かる。でも、この病気になるとそれが分からなくなってしまう。変に我慢していたら、心も思考も不安と絶望に乗っ取られ、本当に死んでしまう。
 これからの人生で、僕が今話したような症状を少しでも感じたら、全てをかなぐり捨てて、誰かに掛ける迷惑も全て無視して、すぐに病院に行って下さい。
 症状が重ければ、服薬だけでなく、会社を休み、自宅で療養する必要がある。死にたいという欲求が強ければ、入院する必要がある。入院しなければ、そうなってしまう。人間はそんなに丈夫じゃない。ためらっていたら、人間は簡単に死にます」
 
 何分もの間うつむいて、深呼吸を繰り返す教師。
 そしてようやく、教師が授業を続ける。
 
「・・・・・そして、僕は時々、考えるのです。前世の僕があの時、ああなる前に、病院に行っていたら、その後、どうだったかを。
 彼は入院することになる。そして、しばらくの間は不安と絶望が心を抉り続ける。全てを失ったかのような喪失感、転落してしまった惨めさ、情けなさに包まれる。これからの将来が不安でたまらない。ますます死にたくなる。親にもたくさん迷惑を掛けることになる。それでますます死にたいと思う。
 しばらくは病院のベッドに横たわって治療を受けるしかない。苦しむ心、痛んだ心、死を望む心を抱えながら留まるしかない。
 そしてこの後、ゆっくりとでも、治ってゆけば良いのです。通院や服薬は続けないといけないだろうし、これまでと同じようには働けないかもしれない。派遣社員かアルバイトになって、ずっと貧しくなるかもしれない。でも、時間をかけてそれらを受け入れる。そして、この経験を通じて彼が再認識し、再構築した、新しい世界への旅に出て行くことができれば良いのです。風景は色を取り戻す。風を感じることができるようになる。暖かい日溜まりが帰ってくる。
 でも、この病気は、10年20年、あるいは一生、治らないこともある。働くことができず、ベッドに横たわったまま、服薬を続け、何十年も過ごさなければならないこともあるのです。
 生きる希望や生きる理由は、どこを探しても見つからない。自分を愛することができない。生まれてこなければ良かったのに、といつも思う。生きて欲しい、という誰かからの言葉は、ひどい悪意にしか聞こえない。そして、いつも隣り合わせに死という救いがある。
 何度考えても、彼にかける言葉はない・・・・・何を言っても嘘になってしまう・・・・・でも、それでも、僕は、生きなければならないと思う・・・・・そして、生きていればいつかはと・・・・・そう、思うのです」



登場人物、目次(各話へのリンク)の紹介ページ

よろしければサポートお願いします。 いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます。