私が支援につながるまで「大人の発達障害かもしれない」③ ~元引きこもり店主 手作りおやつ工房とさか~
寂しかった自分に気づけた
2度目の結婚相手とは、婚姻届を出してからわずか半年で離婚しました。
「私が悪いからパートナーは暴力を奮うんだ…私のどこを直したらいいんだろう」と受けた夫婦問題のカウンセリング。カウンセラーさんに言われたのは、「パートナーとのことじゃなくて、まさよさんがどう生きていきたいか考えない?」の言葉でした。
アルバイトの私には少なくない費用でしたが、回数を重ねるごとに、それまで真っ暗闇だったのがパーッと視界が開けていきました。当時のメモなどは処分してしまいうろ覚えですが(以前はよく、自分の過去や存在をリセットしたくなり、転職や転居の度に思い出のものなどを捨てていました)、
・親の躾、支配が厳しかったこと
・がんばり屋で甘えられず寂しかったこと
・親の価値観と合わなかったこと
・自己評価がとても低いこと
などに気づけたかなと思います。子どもの頃の自分の気持ちを思い出して、カウンセリング中涙が止まらないこともありました。
カウンセラーさんの言葉で希望になったことは「人には成長する人としない人がいる。まさよさんは成長する人だから大丈夫よ。何かあったらカウンセリング外でも親戚のおばちゃんだと思って連絡してきてね」の言葉でした。
信者ではなかったけれど「クリスチャンの教え」に沿った母の躾はとても厳しく、お仕置きは物差しやベルトで10回、20回とお尻を叩かれたり、かび臭い物置に閉じ込められたりしていました。「子どもは痛い目に合わせないと分からない」とどんなに泣いて謝っても容赦なく叩かれました。「人間の目は欺くことができても神は見ている」と全ての言動や感情が監視されているという恐怖、それから「親の言うことは絶対」で常に緊張していました。門限も厳しく、見て良いテレビ番組も制限されました。
高校の頃、複数の先生方は「浮世離れしている…進学で一人暮らし大丈夫か?」「(私が)コンビニの肉まんを食べたことがあるかで男子達と盛り上がる」「(人の感情が読み取れず、国語の小説の点数がひどくて)ドラマとか映画見たことあるか?」と箱入り娘であまりに世間を知らないと気がかりだったそう。
反抗期のなかった子
真面目でバカ正直だと母に言われていた私ですが、親に反抗することはありませんでした(正確には、反抗することはできませんでした)。
小学生の頃から、
「ピアノの先生になる!」→「あんたには才能ないからダメよ」
「調理科のある学校に進学したい」→「高校は進学校にしなさい。料理の勉強なんか、社会人になってからでもできるから」
「学校の先生になりたい」→「ダメよ!あんたノイローゼになるよ!」
と言われました。がっかりしたけど子どもの頃は、お母さんが言うなら私には無理なんだって思っていました。
欲しい物や友達との約束も、「そんなのダメに決まってるでしょ!」と言われるのがわかってるので、両親が許容する範囲でしか「~したい」と言えませんでした。
やってみなきゃ分からないじゃん!勇気を振り絞った一言
普段の模擬試験より100点くらい得点が低かったセンター試験。担任の先生と母との三者面談で、前期後期の受験する大学を決める時のこと。
先生「お前と同じ点数で、過去に2人受かった先輩がいるぞ」
私「(可能性があるなら諦めたくない。ずっとがんばったんだもん。)受けたいです!」(高校の頃、私は大人しい生徒だったので、ものすごい勇気を振り絞った一言でした)
先生「よし!よく言った!」
母「ダメよ!無理に決まってるじゃない。他の大学にしなさい!」
帰り道、母は「先生も何が「よく言った」よ!後期は必ず受かるところにしなさいよ」ととても怒っていました。
ラッキーなことに二次試験の数学がよく解けて、前期試験で九州大学に合格しました。無理よって母は言ったけれど、私にできた!無理じゃなかった!というのは自信になりました。
色んな生き方の人がいると知った大学生活
一人暮らしを始めて間もなくラーメン屋さんでアルバイトを始めました。九大生の多くは、時給のいい塾講師や家庭教師をしていましたが、働くなら好きな料理がしたいと飲食店以外考えませんでした。
未成年だったので親の同意書が必要とのことで実家に電話すると「は?水商売なんかダメよ。ちゃんと仕送りしてるでしょ」って…。(お金が欲しくてアルバイトしたいんじゃないんだけどな…。)
昼間のシフトであること、学業をちゃんとやると約束して何とか許可してもらいました。初めてのお給料はとっても嬉しくて両親にプレゼントを買いました。
バイトの先輩で私を可愛がってくれた女性は、高校中退でフリーター、金髪でタバコを吹かしながらよくドライブに連れて行ってくれて色んな話をしてくれました。両親が知ったらどう思っただろう。私は一人暮らしの自由を満喫しました。
残念ながらラーメン屋さんは私が入って2ヶ月で潰れてしまい、次にイタリアンレストランでバイトを始めました。シェフもスタッフ全員女性で、パスタのフライパンを煽ったり、ピザ生地を手際よく伸ばす姿にあこがれました。10代の私はみんなに可愛がられ、「化粧しなさいよ」と休憩時間にフルメイクされて恥ずかしい思いもしました(笑)。
講義の出席やレポートはきちんとしていて、入学当初3人組で仲良くしていた子から無視やあからさまに悪口を言われるようになった以外、大学生活は充実していました。
大学1年の春休み、西日本の大学生合同の1ヶ月間のドイツ研修旅行に参加しました。日本の何だかよく分からない窮屈さからの解放、自然が調和した街並み、たくましいドイツ人女性。
旅行じゃなくて住みたいなぁと大学3年の夏から、改めてドイツに交換留学で1年間滞在しました。
実家には年に1、2回のとんぼ返りで、家族からは「何を言っても聞かない身勝手なやつ。親不孝者」「子どもの頃は石橋を叩きすぎて壊すぐらい慎重だったのに、後先考えず突っ走るようになった」と半ば呆れていたようでした。ドイツ旅行や留学も「外国なんか住めるところじゃない!」と最初は大反対されました。
ドイツ留学も上京の時もめちゃくちゃ怒鳴って反対されたけど、お父さんはパスポートも持ってなかった。私はドイツ、スロバキア、イタリア、イギリスと回って無事帰国、25才で上京して現在36才まで無傷で生きてるよ。
そんな積み重ねが、お父さんとお母さんの言うことが全部正しいわけじゃないんだという確信になりました。学歴がなくても自分で働いて好きに生きてる人はいるし、外見はちょっと怖そうって思った人がお父さんやお母さんよりずっと穏やかでいつも笑顔だった。
そんな新鮮な出会いもたくさんあったけれど、傷ついたこともいっぱいありました。
親元を離れた大学生活。アルバイト、恋愛、留学。そして社会人になってからも、何かうまくいかないことがあると、この頃からの自分の選択が間違っていたんだと「私がお父さんとお母さんの言うことを聞かないからこんなことになるんだ」と自責の念と後悔に苛まれ続けました。
続く