傷は簡単には癒えない そして、治ったとしてもその傷跡は残る 傷が治ったふりをしていても心は正直だ 笑顔を振り撒いていても心は苦しく泣いている そして傷をぶり返したり まんまと傷口に塩を塗られることだってある その度に、苦しくなり 許せない気持ち、憎悪でいっぱいになる そしてこの傷が 未だに癒えていないことに絶望し 赦せない自分に絶望するのだ しかしイエス様は、十字架の傷跡が癒えた状態で 私たちを赦し愛されたのではない 傷が癒えていない状態で私たちを愛された だから傷を
結局、自分を生きることしか できないんだなぁと思う 誰かの代わりに生きることも 誰かが生きるために何かすることも 結局はその人自身しかその人を生きれなくて 苦しみを代わりに背負ってあげることもできない 自分に与えられた範囲があって 人のためにできることには限界がある 自分は自分を精一杯生きて 自分にできる形で人に寄り添って 祈ることしか できないんだなぁと思う それしかできない 自分を精一杯生きよう
何も実ってない そう嘆いてしまう時がある 何かうまく行かなくなった時 結局私には何も実っていないという思いになる 何か実りがないと 自分の存在価値が無になる気がして 何か実らせないとと焦って必死になる そして最後にはつまづいたり転けたり 結局何もない自分を知ったりして 傷ついたり痛みを感じたりする 本当に格好悪い 自分で自分がみすぼらしく思う 神様はそんなことを私に求めていないのに ただ、純粋な私のまま 純粋に神様とともに歩む毎日を楽しむことを 神様自身が楽しんで
プライドって難しい 相応しいプライドを保つことは 大切なことだとは思う けれど、プライドを捨てて 格好悪いことができること 人に寄り添うことができることは とても素敵だと思う 自分を無碍にするのではなく 尊く保つことは必要だ けれど同時に お高くとまることをせず 枠に囚われず愛を持って自分を捨てられる そんな人間になりたい 自分の立場を捨ててでも人に仕える そんな人間になりたい イエス様こそ そういうお方だった 神様としての位を捨て 人に寄り添うため、人間になり
夜勤の始まる前、 「神様、この一晩、 私とともにいて支えてください」 と祈る そして夜勤の始まりに、患者さんに 「朝までどうぞよろしくお願いします」 と声をかけて回る この言葉には、 「どうか無事に朝を迎えられますように」 という祈りと、 「朝が来るまであなたのことを 心配して側にいますからね」 という思いを込めている それは一晩中、側にいてくださる神様のように、 私も患者さんの側にいれたらという願いから。 夜は人を不安にさせる 眠れない夜もある 平安でいられない夜
これで大丈夫なのか この先大丈夫なのか 不安になり始めると止まらない けれど、それでも もう大丈夫 神様がともにいてくださるから大丈夫 神様は絶対に私を 見離さず見捨てないから大丈夫 神様は私から離れないから大丈夫 私は大丈夫じゃなくても 神様がいるから大丈夫 そう思えるようになった もう大丈夫 神様がいるから大丈夫
この先どうなっていくのだろう どうなってしまうのだろう という漠然とした不安に 長い間、怯えていた こんな荒野から いったい何を生み出せるというのか こんな無から何が生まれるというのか そんな思いをたくさんしてきた けれどそんな私に 神様は恵みと憐れみと癒しの中で 語りかけてくださった 神様はこれから私に たくさんのものを創造してくださる 私の大好きな山や花や自然を 創造してくださったように 私の未来も美しく創造してくださる そして神様は 創造した私自身を喜び楽し
今が一番良い時 そう思える時がある とっても幸いなことだなと思う 今が一番辛いのか、もっと辛くなるのか もはやわからないと思って 闇の中をただ耐えていた時もあったからこそ そこから導き出され 今が一番良い時と思える時は 本当に本当に幸いだ ただ素直に今に感謝したい
傷は簡単には癒えないし 憎しみは簡単には消えない 悲しくもそれは事実だ 愛せるものなら愛したい でも、嫌でも沸々と憎しみは湧いてくる このまま放っておいたら 殺してしまうんじゃないかと思うほど 私の憎しみは深く醜い そんな簡単じゃないんだよ 楽しみや喜びで覆えるほどのものじゃないんだよ 確かに傷は残っているのだから もう治ってるなんて本人以外に誰がわかるの? 本音を許せば憎しみの言葉が マグマのように湧いてくる こうして自分の憎しみに苦しむ それなのに、赦しているか
愛するとは何か どうすることが、愛なのか 日々考えている 恋とか好きとか、そういう愛ではない 人を、被造物を、神様ご自身を愛するとは何か 考えている 考えているからといって まったくもって愛せているわけではない 「これが愛なのか!」 「愛させてもらったな」 という時もあれば 「愛がなかったな」 「愛せなかったな」 と思う時もたくさんある 愛せなかったとき じゃあ、何が愛だったのか どうすることが愛だったのか 振り返る中で行き着くのは イエス様はどう愛してくださるの
葛藤や、うめきを 蔑んだり、嫌悪したりしないでいたい
私の思考回路は ほぼ父と母の受け売りではないか と思う時がある 親として、信仰者として 父と母からは教えをたくさんもらってきた 父も母も完璧な人間では全然ないし 私と考えが全く違うことも多いけど 信仰者として人間らしく神様と向き合う姿を 私は心の底から尊敬している だから父と母が言うことは 本当にそうだなと思うし 私自身の言葉にもなる すべてではないが。。 人として、信仰者として、 私は自立できているだろうか と思う時がある その思いから、一人暮らしを始めた でも結
今日は誕生日だというのに 先週からずるずる引きずってきた風邪がどんどんひどくなり、誕生日前日には38度台の発熱。 インフルエンザでもコロナでもない風邪だから 解熱剤を飲んで出勤するしかなかった なんて誕生日だ 最悪だ そのうち辞めてやると唱えながら解熱剤を飲んで仕事へ行った 普通に忙しい仕事の一日を過ごした 帰りは実家に寄って、ご飯を食べさせてもらい お風呂で鼻歌を歌い 愛犬を愛でて帰ってきた 普段と変わらない1日だった 誕生日とて普通の1日だった だけど自分の家に
礼拝を守ることはとても感謝なことだ 同時に礼拝を守ることは戦いであり命がけだ 社会人になって 日曜日が必ず休みではない仕事をしている中で 日曜日の礼拝を守ることは必死だ 正直、とても大変。 けっこうしんどいし、死の物狂い。 けれども、礼拝を守れることはこの上ない幸いだ 毎日の中で神様はすべてを受け入れてくださるが 神様の家に行って受け入れてもらう恵みは 格別だ 神様にすべてを受け入れてもらえること それぞれの日常に遣わされている兄弟姉妹が 集まり励まし合い、祈り合
定期的に私は荒ぶる 荒ぶっている時は ずっとこのまま闇のままなんじゃないかと 絶望感に苛まれる でも、荒ぶりながらも この時が静まるのを待ち、 いや、待ててはないが その時をどうにか過ごしているうちに だんだんと凪いできて 気づくと神様の御前に座っている その御前で神様が何を語ってくださるのだろうか すぐに神様の前に座って聞きたいけど なかなかそんなに綺麗にはできない でも荒れた時の後の静まりだからこそ 聞ける御声があるのだと思う 荒れることが良いというわけでは
なぜ人は比べたがるのか 比べてしまうのか そして人を見下したり 必要以上に高く奉ったりし 自分の位置付けを勝手に決めるのか 身分、地位、学歴、能力、奉仕、仕事、強さ… これらは神様が与えてくださる尊いものだが 神様の前では、ある意味でどうでもいい 神様の前に、付属物はどうでもいいものだ 神様はそんなものを抜きにして その人自身に価値を見出しておられる 高価で尊い存在としてはじめから造っておられる 人の価値は付属物で決まらない 神様が造ってくださった人であることそのもの