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うつ病改善のためにヨガ・瞑想会に深入りしてはいけない
私の妻は長年うつ病です。
精神疾患経験者なら「あるある」だと思うのですが、巷の色々な所で開催されている
ヨガ・瞑想会・仏教法話会
に我々も例外なく参加していました。
ヨガや瞑想は心を穏やかにし、精神を安定させる作用がある
ことが、この世間でも常識化しているように思います。私自身もそのように感じます。
しかしながら
ヨガ・瞑想会・仏教法話会に参加する人々との人間関係が深まり、主催者の「心の内」を把握するたび、いつも失望していました。
最終的に、そういった世界からは一線引くことにしました(皮肉なことに、一線引いた途端、妻の精神が徐々に安定していったように感じます)。
まず、率直に伝えたい失望点ですが、日本社会に根付いているお寺が実質的に
「世襲制」
である点です。崇高な宗教と言えども、所詮は人間の集まりです。
その宗教組織内において
「信用のおける人」
「真剣な人」
「造詣が深い人」
「人を深いところへ導けそうな人」
を組織上層部に押し上げるべきです。例えば、カトリック教団が次期ローマ法王を選出する際「コンクラーベ」という厳しい選挙戦を交えます。
そのような厳しい戦いが宗教組織内で繰り広げられるからこそ、長い間、人々から信用・尊敬を得られているのだと思います。
しかしながら、お寺のような世襲制の場合はどうでしょうか。この場合
「如何にして我が子孫にこの先祖代々の仏教的財産を引き継がせるか」
という相続財産が思慮の中心にどうしてもなってしまいます。これは「命のバトンがからむ究極の欲望」だと思います。どうでしょうか。
例えば、鼻クソをほじくりながら
「将来やりたいこともないし、プータローにもなりたくないし、まあ家業でも引き継ぐかあ~」
とアクビをかきながらボソッとつぶやくボンクラ息子ですら、当然のようにお寺の住職になれる、ということです(分かりやすく表現するために多少デフォルメしています)。
「欲望は身を滅ぼします。瞑想によって鎮めましょう」
と説法している坊主自身が究極の欲望に溺れている、という皮肉です(大体、そういう薄っぺらい坊主の説法は、色々な経典に載っているそれらしい格言をだらだら押し並べているだけです)。
プータローになりたくなくて家業を継いだだけの坊主自身が、果たして、絶望感・罪悪感いっぱいのうつ病方々を真の意味で導くことができるのでしょうか?