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上田紀行氏×新井紀子氏の対談が猛烈に面白い件 文系と理系とAIと(1)

▼「中央公論」の2019年4月号に載っていた、上田紀行氏と新井紀子氏の対談「文理融合教育でAIに勝つ」が猛烈に面白かったので、何回かに分けて紹介する。

▼これは「文系と理系がなくなる日」という特集の一環。両者の話にはそれぞれの著作のエッセンスも詰め込まれていて、お得感が多い対談になっている。

痛烈なエピソードが続くが、その共通するテーマは「AI化する人間」といったところだ。

〈答えを欲しがる学生〉という小見出しのエピソードから。

新井 東工大に限らず、私は、最初の授業で、「なぜ数学を、数理論理学を学ばなければならないのか」という話をするようにしています。しかし、東工大でその問いを投げかけたら、学生の答えは「必修科目だから」。そして、「そういうことはいいから、授業早く始めてください」と言われてしまったんです。(笑)

 上田 すみません。それいつごろのことですか?

 新井 10年くらい前でした。すごいカルチャーショックでした。

 上田 「でした」と、過去形にしたいですね。(笑)

 新井 でも、東工大に限らず、全体的にいまの学生は、ある目的に辿りつくためにさっさと答えをください、みたいな感じがありますね。

 上田 (中略)学生も社会全体も成果主義というか、とにかく短期的な評価を気にするようになった。「先生、このレポートの評価軸はどこにありますか?」なんて質問をすることは、私の学生時代には考えられなかった(苦笑)。そこで「こういうふうに評価します」なんて教えようものなら、もう同じようなレポートのオンパレードです。誰かが作った問題は解けるけど、自分で問題を発見することはなかなかできない。

 新井 (中略)いまの若い人たちは数学的に論理を追う力が十分に育っていない。中高生に「木の高さって、どうやって測ると思いますか?」と聞いたら、「巻き尺で測る」と言うんです。「いや、巻き尺でどうやって測るのよ。猿でもないのに、あなた木の上まで登れるの」と聞いたら、グーグルで検索する。

影から高さを測るために三角関数が必要だと思いつかなくて、巻き尺で測るというのは、すごくリアリティが欠如している。

 上田 その話に象徴されるのは、木の高さが何メートルですか、ってあなたに聞いているのに、まったく私というものと関連づけられないで、巻き尺で測るとか、自分にはできるはずのない方法を答える。私がここにいて、世界の意味が私を中心に構成されているという認識が、まったくないわけですよね。誰かが測ってくれて、私はそれを知るだけ、というふうになってしまっている。〉(33-34頁)

▼終始こんな感じで、現代学生事情(こども事情)を知らない人がいきなり読むと、ひっくり返ってしまいそうな衝撃的なエピソードが続く。

呆れた新井氏が「猿でもないのに、あなた木の上まで登れるの」と質問するところで思わず笑ってしまった。「木の上に登れるか」と言われて、グーグルで検索しはじめる時、その子のアタマとココロはどのように動いているのだろうか。いつごろからそういう思考構造の子が増えてきたのだろうか。とても興味深い。

▼上田氏の「誰かが作った問題は解けるけど、自分で問題を発見することはなかなかできない」という指摘が、古典的だが、重要だ。

何百年も前から言い古されていることなのだが、「答えを出す」よりも、「問いを見つける」ほうが重要な局面というものがある。家庭生活においても、仕事においても、そういう局面だらけだ。そうでないのは「学校」の中だけかもしれない。いや、学校でも、そうだ。

人生に用意された答えなんてない。自分で問いを立てて、答えをつくるしかないわけだ。それは、たとえば知的生活といえばマークシートを塗り潰すだけだった人にとっては、じつはとても理不尽な状況かもしれない。

だから、対応不能になった人は、「目の前」の、「自分」の問題に対して、まったく他人事(ひとごと)のように接して、ふるまってしまう。そういう人が増えると、社会は貧しくなってしまう。

▼誰かが用意してくれた問題を解くだけの思考回路を叩き壊すには、どうすればいいのか。厄介なのは、その「答え」さえも誰かが用意してくれている、と思ってしまう人がいる、ということだ。

解決のカギは「論理」や「読解力」にあり、「文系と理系の融合」にある、という話。(つづく)

(2019年3月15日)

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