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山室信一氏の「モダン語」研究が「モダン=近代」を相対化する件

▼大きな本屋でしばしば無料で置いてあるので、無料だと思っていたのだが、じつはもともとは有料の情報誌がたくさんある。

岩波書店の「図書」もその一つで、今年(2019年)から始まった山室信一氏の連載「モダン語の地平から」が面白い。

山室氏は「視点」が抜群に鋭くて、近代史の研究者のなかで常に注目している人の一人。いまは「思想連鎖史」を専門としている。最も気軽に手に取れるのは『キメラ 満洲国の肖像』(中公新書)だろう。傑作である。

もう一冊挙げるとすると、人文書院の『複合戦争と総力戦の断層 日本にとっての第一次世界大戦』。諸々の出来事の意味を「分析する力」ではなく、「総合する力」を感じさせる、これも名著である。

▼「モダン語」の連載は、硬軟でいえば「柔らかい」テーマだが、とりあえず、2019年1月号から。適宜改行。

〈1910年代まで、文明化や欧化主義とは「舶来」に同化し、「ハイカラ」になることだった。しかし、1920年代以降、モダン語では「舶来」化は「ハクラる」、「ハイカラ」になることは「ハイカる」と動詞化された。

そのうえで、それらはもはや時代遅れであり、「当世風になる」「モダンになる」ことを動詞化した「モダる」でなければ時代の動きに取り残されると言われるようになった。〉

▼これだけでも面白いが、そうした「モダン語」を総ざらいして、見えてくるものを見よう、という連載。かなりの知的体力が必要だ。

〈それではモダン語とは、どんなものだったのか。

 一例を挙げると、夏目漱石や森鴎外の小説などで知られる「高等遊民=高等の教育を受けながら就職難その他の理由によって職業を得ず、無為徒食せる人々」に対して造られた「高等貧民」がある。これは「月給によって生活しているため、物価騰貴の影響で生活難を叫ぶ中産階級」「世間でいう貧民階級より一段だけ上にあるため高等貧民と呼ぶ」などと解説された。

さらに、新風俗を示すために「高等遊牧民」が造語されたが、これは「遊牧民が牧草を追って漂泊するようにカフェーからカフェー、レストランからレストランを回り歩き、五色の酒・青い酒などを飲んで気焔を挙げる人々」を指す。現在なら退社後にファミレスなどをふらつく「フラリーマン」にあたるのだろうか。〉

▼「あ、わたし、高等遊牧民じゃん」と思い当たる人、いるのではないだろうか。

〈また、第一次世界大戦とともに(にわか)に大金持ちとなった「成金」については歴史教科書などでも絵入りで説明されているが、モダン語として流通したのは「成貧」であり、「不景気などの影響で、一定の収入が有っても無くても貧困に陥った人」などと説かれた。

経済格差の拡大は、モダン語を生む苗床になっていく。

 このようにモダン語は、事象の表裏を複眼的に穿(うが)ち見る眼差しがあり、社会への批判や揶揄そして時に毒気が含まれた。それは男女や階級に関するモダン語に特徴的に現れてくる。〉

▼この「成貧」などは、たとえば「富裕層」の対極に位置する「ワーキングプア」と大きく重なる。「成金」と「成貧」。かなり、「今」を反映した言葉だと感じる。

広がるばかりの経済格差は、時代の壁を越えて、よく似た世相を生んでしまうことがわかる。

〈そこでは世界的動向を吸収するモダン語こそ日本語の国際化に繋がると説く推奨論と、雑駁で浮薄なモダン語こそ日本語の乱れをもたらす元凶だと主張する排斥論が対立する。

モダン語への嫌悪・警戒心を恐怖症(phobia)とみなす「モダン語フォビア」さえモダン語として注目されるーーそれがモダン語の時代だった。

 しかし、モダン語排斥の声は、軍靴の音と共に高まる。英米語などのカタカナ語は「敵性語」として駆逐され、モダン語は自粛を強いられていくのである。

▼山室氏は、その博覧強記に知識人としての価値があるのではなく、インプットした情報を「統合する力」にこそ知識人の価値がある、ということを実践で示している知識人の一人だ。

こんな密度の濃い連載の載った雑誌を、大きな本屋に行くとだいたい「無料」で手に入れることができる。筆者が本屋好きになった理由の一つである。

▼「モダン語」は「モダン=近代」を相対化して、当時の人々が大切にしたものを浮き彫りにするだろう。そうして炙り出された当時の社会の実相は、おそらく現代において幾許(いくばく)かの「合わせ鏡」の役割を果たす。

この方法論は、アカデミズムの世界だけでなく、さまざまな知的活動に応用可能だと思う。

(2019年6月24日)

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