固有名論への助走
知の巨人、南方熊楠は、言語などによって幾重にも媒介された「表象」を学ぶものとしての「学校」を嫌い、「実物」(例えば粘菌など)とじかにふれあう、「実物の世界」に宿る「学問」を愛した。そんなふうに中沢新一『森のバロック』ではまとめられている。中沢のこのような魅力あふれる筆致や、ひどい癇癪持ちを勉強によって和らげたという逸話、あるいは唐澤太輔のいう「極端人」としての肖像などにシンパシーを感じ、私は熊楠を(古文が苦手なので主に二次文献を介してだが)読むようになった。
しかし実のところ、私は生き物は大の苦手であるし、粘菌などもってのほかである。外に出てなにかの観察をしたこともないし、自分が「実物の世界」で学問をしているとはとても言えない。それどころか私は、本の中で「南方熊楠は…」という名前が出てくると、そこに強くコーフンしている自分に気がついた。これでは彼が最も嫌った表象のアプローチではないか…。
思えば、自分で勝手に「レイヤーづけ」または「論論」と呼んでいる現象(?)があって、例えばフローベールの『ボヴァリー夫人』を読むより、蓮實重彦の『『ボヴァリー夫人』論』を読むほうが一段レイヤーが上がるので興奮度も増す。誰それが書いた蓮實重彦論を読めば、“論の論”なので更に興奮する…。同じように、現実に咲いている花よりも花の写真のほうを好み、花の写真よりも写真論を好む…。こういう性向が昔からあった。入門書や解説書を何十冊も揃えて、原典は読まないということもよくあった。その中でも特に興奮するのが「固有名」であった。
ふつうこういう性向は明に暗によくないものとされる。「名詞や形容詞で考えるんじゃない。動詞が大事なんだ」という言い方は、名前は挙げないが複数の人から直接言われたことがある。理念としては私もそれに賛同する。だが自分が固有名フェチであること自体は止められないし、否定したら自己否定になってしまう。ならば、自分にしか書けない固有名論を書けばよいのではないか…?
二次文献渉猟癖として、先行研究にもかなりあたってはみたが、まだイマイチピンとくるものを見つけられていない。最もピンときたのは、『ドゥルーズ 千の文学』という論集に入っている、松本潤一郎が書いたクロソウスキーの項目である。この線をどう伸ばしていけるか。
フィクションだと、もっと自分に引っかかるものがいくつもある。N極、S極、と置いた場合に、片方には青木淳悟『男一代之改革』やローラン・ビネ『言語の七番目の機能』がある。これらは実在の人物を作中に登場させた作品だ。実在人物を出すということは、読む前から読者はある一定のイメージをもって読むことになる。するとうまく方向づけをしたり、裏切ったりすることができる。スピノザ的に言えばこれが一番やってはいけない読み方なのだが。
他方の極として考えられるのは多和田葉子の『尼僧とキューピッドの弓』で、この小説には「透明美」さんとか「流壺」さんとかいう人の名前が、ルビもふらずに何人も出てくる。そのため読者は名前をちゃんと読むことさえできないまま小説を読まなければならない。例えば「透明美」さんなら、そこからある程度イメージしてしまうもの(言葉が呼び寄せてしまうもの)はあるにせよ、この試みは面白いと思ったし他に類例を知らない。この線もまた、どこまで伸ばしていけるだろうか。
田中泯は、『ユリイカ』のインタビューで、「人間社会が生み出した一番のゴミは名前ですよ」と断言している。そのときの含意をすべては汲み取れないが、私なりに言えば、一瞬ごとに異なる多様な私のありよう(「私」も名前だ)を、ひとつの同一性のもとに押し込めてしまう機能を持つものとしての名前。田中がそこに苛立っているかはわからないが、私の素直な身体感覚としては「1秒ごとに別人」なので、それを取りまとめる名前などもってのほかであるというのもわかる。だが繰り返すが、どうしても固有名に惹かれてしまう自分もいる。ニーチェが書簡の中で「歴史に現れるそれぞれの名前は、私だということです」と言い、続けて誰々は私、誰々も私…と列挙しだすとき、かれは自分を収束させているのではなく逆に発散させているのではないか。固有名善用の祈りが、いくつかの箇所にわずかな希望として残されている気がする。
書きながら気づいたのは、これは以前書いた拙稿「「フラット・キャラクター」論への助走」と密接につながっているということだ。特に青木やビネの名前を出したあたりは、文学におけるキャラクター問題、映像化の問題など含め、固有名というところから更に発展するいくつもの線を孕んでいるように思わせる。ぜひ併せて読んでいただければありがたい。しかしいつもながら私には統合能力がないため、それらを論述としてまとめることはできない(ここまできて、冒頭の熊楠シンパシーへと戻ってくるわけだ)。アイデアを羅列するだけして、書きっぱなしの原稿しか書けない。あとは誰かがそれをうまく整理してくれたらなぁと願うばかりである。