きれいな心に触れると、世界が私みたいなクズばかりじゃなくて良かったなって安心する。 人の機嫌を伺うことなんて知らない人懐っこい少年みたいな満面の笑顔をこちらに向けて、でかい声で私の名前を呼んで、私が居ることに喜んでくれる人が新しく始めた職場にいる。 最近やっと少しだけ人のことを信じられるようになった私に、あまりにも疑う余地のない純粋な好意を向けられてしまって、そんな経験のない私は喜びのパニックでれでれと笑うことしかできなかった。私より年上のお兄さんなのになんでそんなにきれ
誰かに話したいけど、話しづらいそういう鬱憤が最近溜まっている。誰にも話せないのには理由がある。 話せないのは倫理的な理由が主だ。私は周りの人からそれなりに尊敬されているが、中身は倫理感の全く無いクズである。倫理なんて持たずに生まれたのに倫理を持ち合わせているようなふりをして生きてきたツケが回ってきたのだと思う。もう誰も本当の私を知る人はいなくなってしまった。 生きれば生きるほど中身がクズになって、外身がすごい人になっていく。どんどん乖離が進んでいく。 「私にはこんなにも
なんだか強くなくてもいいや、という気持ちになり始めてる。多分元々けっこう孤独が好きなのだと思う。子供の頃、みんなでお遊戯をする時間に折り紙をやっていたくらいには、一人の世界がけっこう好きだ。もちろん、人と会うのも好きだけど。今いる友達を大切に、こじんまりと丁寧に生きていこうと思う。 強くありたいと思っていたのは、自分の弱さを、繊細な所を守りたかったことの裏返しであった。 繊細なことは今も昔もずっと変わってない。たぶん、これからは守り方を変えていこうというような、そんな感じ
私は、一人で悩むことが多い。 悩みとは、ないものねだりであると思っている。人は悩んでいるとき、もれなく相反する複数の願いが同時に叶うことを望んでいる。 「痩せたい」けど「食べたい」とか、「賢くなりたい」けど「勉強したくない」とか、「傷つけたくない/傷つきたくない」けど「遠ざけたい」とか。 だから、悩みを終わらせたければ、解決したければ、どの願いを捨てればいいか決めて、起こり得る損を覚悟して全て受け止めるだけだと、私は思っている。 そうして取捨した願いが結局、もっといい
昨日の朝まですごく鬱で、ここではない何処かへ行きたい気持ちだったんだけど、ちょっと働いてカフェインとビタミンB群のサプリを飲み、温泉に入ったらそんな気持ちはどうでも良くなって、飲みに行って、スポーツの後のような心地よい猛烈な眠気で布団に沈んだ。 私は、婦人系の持病があるため薬を飲んで生理が来ないようにしてる。だから生理前のイライラとかもない。生理があった頃は自分の意志で感情を制御できないくらいイライラしていて、物や周りの人に当たり散らして自己嫌悪していた。箸が転がっただけで
私はもっと、友達によりかからなくてはいけないな、と思った。 今日は、ずっと思っていたストレスをたぶんあんまり良くない形でぶちまけて、私はどうせ誰もそんなに反応しないだろうと思ってたのだが、なんか思ったより沢山の人を巻き込んで、時間を神経を搾取しまい申し訳なくなってしまった。 長く関わってくれた人からぶちまける前に相談してほしかったと言われ、そうすべきだったと思った。私がうまく言葉にできなかったことを私よりもずっと上手に表現してくれる人が何人もいて、なんでプロに頼らなかった
今日は暇だったのでなんとなく自分の過去のnoteを読んでいた。過去の自分が書いたことはあんまり覚えてないので、新鮮な気分で読める ほとんどイイネが欲しくて書いてるものばかりなので、狙ってる感じの文体が時々キモくて恥ずかしい。 でも、苦しんだり悲しんだりしながらも自分が幸せになるために色んなことをやったりやらなかったり決意したり諦めたりして、 その過去の自分の努力のおかげで、飾らない自分のまま友達がたくさんできて、ありがとうの気持ちになった。 とくに読んでて嬉しくなった
こないだ新築の現場でどうしてもうんこがしたくなって現場の仮設トイレを使ったんだけど、落ちたときに下に溜まってるやつが跳ね返って来てとても悲しい気持ちになった。小は大丈夫だったけど、大はもう絶対使わん。 ということがあってから、他人の糞が跳ね返ってこないトイレで用を足すときホントに幸せな気持ちになる。あの嫌な体験はトイレの神様からの贈り物だったのかもしれない。 ここ2ヶ月ほど一週間くらい仕事がまったくないときと立て続けに入っちゃう時があり、立て続けにこなす体力が足りなくてと
昨日はイベントバーエデンでイベントをやった帰りにかみなに行ってきた。電車より早く帰れるから車で来たのに、せっかくだからかみな行くか、となってしまった。理性なさすぎ。 前に来たときは2回とも貸切状態だったので、お客さんたくさん来ていて知らない人が多くて緊張したが、すいか美味しかったし、メニューにのってない飲み物とかリクエストしたら作ってくれて嬉しかった。1:00ころ、かみなをあとにした。美味しそうなジンがたくさんあったので、今度はお友達と来たいな。 帰りは高速に乗った。眠く
私は自分を許すのが下手すぎて辛いんだなぁと最近実感している。 今日は悪気なく先輩にかなり失礼なことをしてしまって、先輩が後でそれは失礼だからやらないほうがいいよって教えてくれた。 他の先輩たちにも同じような失礼をたくさんしてしまっていた私は自己嫌悪の渦に飲み込まれながら、帰りの車の中、めちゃくちゃ濃かった今日一日の出来事たちを振り返っていた。 私は失礼なことをしてしまった自分を許せない。辛いのに自分を責め立てる自分の言葉が頭の中で止まらない。 あとでふと、でも先輩は許
最近自分にはもう可能性がないなぁと思う。というのは、やりたいけどやったことのなかったことのうちのほとんどを、もうやったり諦めたりすることをやり尽くしたんだと思う。 あるいはやったことのないことも、やればきっとこうなるだろうなという予想がつくことばかりで、ある意味大枠の部分はもうやり尽くして細部にどれだけこだわっていくかみたいな所にたどり着いてしまった気がする。 でもそれは決してつまらないことではないし、別に人生をやり尽くしたという感覚もない。自分がコントロール出来るものと
久しぶりにインスタを開いたら、高校の時のバイト先の店長だった人のポストがタイムラインに流れてきた。 今度実家に帰ったときに顔を出そうと思っていた友達の店のその友達の誕生日会をやったと言うポスト。 でも、なんかすごい違和感があって、彼はいつも相手を立てるタイプの人で、こんなふうにあんまり自分を盛大に主役にするようなイベントを打つような人じゃない。 写真も誕生日会なら友人たちに囲まれたその友達が写ってるはずなのに、友達のひょうきんな変顔が印刷されたポスターと何年か前の写真で
なんとかしてきたし、なんとかなってきた。私の意思でもあったし、環境でも、運でもある。 なんとかなるという言葉を、他人の生活を脅かすことなく、自分もそれを保てているくらいの意味で使ってる。 嫌なことから逃げて逃げて逃げてここまでやってきて、もう逃げ道がないから、最近は迷うことが少ない。 迷うっていう行為は、何をするか決めるよりも何をしないか決める工程のほうが遥かに多い。 時間、お金、感情、体力などのコストを仕事にいっぱいいっぱい使ってるため、迷いは発生するものの、そこに使
成長してるようで、昔から悩みの内容はあんまり変わってない。悩みはいつでもないものねだりから生まれる。きっとないものはないってことだ。ひとりで考えて出せる答えの限界。 私にはひとりよがりのコミュニケーションをする人を受容する広い心もないし、そいつを変える力もない。 こう言う気持ちになってしまうと、いつも相手を傷つけて遠ざける以外に解決する方法を見つけられないんだが、そもそも接近しない/されないようにするとかの予防はこれからはできる気がする。 そうだんしよう、そうしよう。
私は、断られたら悲しいのであんまり特定の人に誘いの声を掛けない。人と喋りたい気分のときは、不特定多数に向けて遊び相手/喋り相手を募集するけど、最近これはあんまり自分にとって良くないのではないか、と思っている。 というのは、誰でもどうぞっぽいことを言っておきながら、誰でもいいわけではないからだ。大体の人とは普通に話せるんだけど、自分だけが楽しければいいって感じに振る舞う人はどうも苦手だ。 そういう人には来てほしくないけど、来るなと言ったらおおごとになるし、来るなと言わないと
三ツ星スラムというぷろおごマガジンの付録コミュニティ内で3ヶ月間連載をさせてもらった。とても勉強になったので、文章が上手くなりたい人は一度やってみたらいいと思います。 連載タイトルは「リペアは風水」。伊予柑さんがつけてくれたタイトルです。リペア(住宅や家具のキズ補修)を頼む人や、関わる周りの人を描写するというテーマ。 切り取る専門職なのであるていどの説明は必要なのだけど、短いほうが読みやすいだろうからどこまで説明するかを考えるのが一番難しかった。つまり書く部分と書かない部