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過去の私が私にしてくれたこと
今日は暇だったのでなんとなく自分の過去のnoteを読んでいた。過去の自分が書いたことはあんまり覚えてないので、新鮮な気分で読める
ほとんどイイネが欲しくて書いてるものばかりなので、狙ってる感じの文体が時々キモくて恥ずかしい。
でも、苦しんだり悲しんだりしながらも自分が幸せになるために色んなことをやったりやらなかったり決意したり諦めたりして、
その過去の自分の努力のおかげで、飾らない自分のまま友達がたくさんできて、ありがとうの気持ちになった。
とくに読んでて嬉しくなったnoteを何個か貼る。
ちゃんと言語化してみると洞察と推論で友達できるはずがないだろwwwと、書きながら笑ってしまった。だいぶナナメウエに爆走してた。気付きを書き出すのはやっぱり大事だな。
とにかく私は個人との繋がり方を何も知らない。洞察力はそれなりに磨いてきたつもりだけど、洞察から立てた憶測はあくまでもただの憶測であり、誰かと仲良くなりたかったら、憶測なんて大した意味をなさないのだ。
これからは相手のことを何も知らないという前提で個人に対して誠実な興味を持って接していきたい。
いつの間にか一対一でも安心して人と話せるようになった。これを書いたことすら忘れていたんだけど、実はちゃんと実践していたんだな。
子供の頃からずっと溜めて溜めて溜めて熟成させちゃったから、邪悪さに自我を乗っ取られてしまったというのもあると思ってる。
今考えると、30年以上も溜め込んでいた邪悪さなんだから、自我を乗っ取られちゃうのもしゃあないよなぁと思う。
あんまり熟成させないように、悪意が錬成されているのを察知したら、小出しに発散させれるようになりたいなぁと思った。
もう人に対して、こんなに高濃度な邪悪さを向けなくて済むように。
雑巾になりたい。
これは2番目の兄と縁を切ったあとに書いたnote。このnoteを書いたあとも結構しばらく苦しかった。時間を掛けて自分の邪悪さを受け入れていった。受け入れると言うか、邪悪さの存在を赦すというか。
やるしかなくなったらなんとかできる自信はぶっちゃけ、ある。それでも安値を付けたり値引きしたくなるのは「安くしたんだからちょっとのことは許して」って逃げ道を確保して安心したいだけなんだと思った。
でも、果たして私の気持ちはそれでいいのか?そんなダセエ職人になりてえのか?と問うとやっぱり違う。自分で自分を褒めたいし、お客さんに高かったけど頼んでよかったって喜ばれたい。これが売上を追うことよりも大事で、これを手に入れるには結果的に売上を出すことになるのだ。
はやく心に追いついてもらって、安心してウン万円をサラッともらえるようになりたい。仕事が降ってきたら純粋に歓喜したい。
自分で、納得できる仕事をして稼いだ金で、いくら消費したかなんて考えずに、遊び散らかすんだァァァァーーーー!!!
ちゃんとサラッとウン万円をもらって遊び散らかせるようになった。このnoteを書いた頃は上手く仕上がらなかったら寝付けないこともあった。今は向上心を持ちつつも、自分の実力をフラットにみつめて値付けも技術もPDCAを回しつつ上手くやって成長しつづけている。
なんとなく気づいていたが、私は自分が思っているよりだいぶ器が小さい。誰でもどうぞなんてやっちゃいけない人間なんだ。
受け身でいるにはそのリスクがあるし、積極的でいるのにもそのリスクがある。人と関わりたいのにどっちのリスクも受け入れたくないっていうのは、わがままなのかもしれない。
私は器の小ささゆえ公的な態度が取れないという事実を認めて、誰でもどうぞ的なことをするのはやめようと決意したという話。この考え方が遊びに人を誘うときのベースになった。
帰ってからだんなぴに、私は自分を許せなくて辛いけど先輩は許してくれて嬉しかった、という話をしたら、私は隠していたつもりだったけど、自分を許せてなくていつも辛そうだったと言ってきて、近くでずっと見守ってくれていたんだなあと、また嬉しくなった。
私は私が思っているよりも私に厳しすぎるんだなぁと思った。もうちょっと自分に優しくできるようになりたいな。やり方はわからないけど。
このときよりは自分自身に優しく出来るようになった。優しくと言うよりはちゃんと自分を罵る自分の声に反抗するというか。インナー大人に罵られたらちゃんと「うるせえ、黙れ!」ってインナーチャイルドが言い返せるようになった。2人はだんだん対等に近づいている。
こうやって自分のnoteをちゃんと読み返してみると、未来の私を幸せにするためにいちばん頑張ってくれたのは過去の私自身だったんだなあと、私はちゃんと私自身に愛されていたんだなぁと気づいてとても嬉しくなった。