#考える
雑考・日記・メモ「逆説的協同」
逆説的協同
1人で為そうとする時に、決して1人では為せない事を強く感じてしまう。
どこまでも独りになろうとする事によって、関係の中に在らざるを得ない事を思い知ってしまう。
コミュニケーションはディスコミュニケーションの中にしか芽生えなという、この逆説。
そして協同とは、実はそういうところから始まるはずである。
2024年2月6日
哲学・日記・メモ「スポーツとは何か」
エクストリームスポーツは自分自身の挑戦を軸にしているから1人称あるいは無人称のスポーツだ。格闘技などは「目の前のあなた」を競技の対象としているから2人称の意味合いが強い。野球やサッカー等は、チームワークが必要であるし、ソーシャルな競技としての認識が強いからに3人称だろう。
スポーツと何か?
を問うてみました。
↓
「スポーツとは何か」
スポーツとは何か。
頭脳スポーツと言う分類がある。囲碁や
雑考・日記・メモ「Horst Jansen の事」
Horst Jansen の事
ドライフラワーの魅力が解るなら Jansen の絵も解るかも。生でないものが生と等価に混在している、それは、死との共存を良識的な調和(あるいは弁証法的綜合)に求めずに、どこまでもせめぎ合う際どい対立で顕している。
Jansen の絵を見るとき、その変態性だけを見るのでは、絵を見損なっている。
雑考・日記・メモ「Horst Jansen の事」
Horst Jansen の事
Horst Jansen の魅力には抗えない。と、言いつつも、もしも Jansen 当人が身近にいたならば決して関わらない類の、彼はコミュニティとソーシャルを完全に無視した人物なのですが、事作品に関しては別物。Jansen の作品は、コミュニティとソーシャルの、道徳と倫理を、たやすくはみ出していく危うさがある。それは災害のような危うさであり魅力でもある。それを体現
雑考・日記・メモ「私が殺されたわけ」
https://www.youtube.com/watch?v=x3R6X_PcDno
私は政治は苦手で出来れば深入りしたくはないのですが、それではいけないという思いもあります。
この曲は私は音楽だとは思っていないしこの歌詞も詩であるとは思いません。
単にこれは「政治的な内容のプロテスト」であると思います。
しかし私は「音楽」や「詩」の超越的な形式性から排除される、このような「内容」を切り捨てた