哲学・日記・メモ「あそびを学ぶという事について」
あそびを学ぶという事について
「あそびの学び」の対象が子供であることは多いけれども、子供は放っておいても「あそぶ」のだろう。だから教育において子供の「あそび」の必要を声高に主張する事は、実はフォーマルな教育を補完するという事でしかないのだと思う。
あくまで補完(アンチテーゼとしてのあそびではもはや教育の意味をなさないだろうから)。
しかし、こうも言える。もし対象が子供ではなく老人であったならどうなのだろうか?と。「あそびの学び」の対象が老人である時、それは全く教育から外れたものとなるのではないか、と。老齢である故の、「死を前にしたあそび」は教育されてするようなものではないだろうからである。その意味で老人にとってのあそびとは、自らの死にさいして、死をあそぶことを学ぶ、死生学で言う死の準備教育に他ならない。
私が子供のあそびの重要性を、教育の内部で掲げることに対する違和感はここにある。教育の内部でのあそびは、その直観のスキルやその応用としての社会での共同の涵養が、将来のプラグマティックな効用として期待されているからに他ならない。結局教育なのだ。
しかし老人はどうか。老人には将来がない。間近に迫った「絶対の他者としての死」が、自身の実存としてあるだけである。そのような死との関係の、具体的な「技術・技法・方法」としての「あそび」とは、実はあそびの本義を子供の教育より以上に必要としているはずである。
子供はほおっておいてもあそぶ。だから教育が必要だ。しかしすでに教育され続け社会化されてしまった老人は、あそびを学びなおさなければならない。だから、その重要度において、本当にあそびを必要としているのはむしろ老人ではないのか。
2022年10月