マガジンのカバー画像

今日の注目記事

36,239
様々なジャンルで話題の記事をまとめていきます。
運営しているクリエイター

#小説

私だけの月を描く|掌編小説 百人百色

1317字  自宅で絵画教室をひらいて2年。体験に来た子どもの面差しを見て、私はハッとした。あの人の鼻筋だ。目もともよく似ている。  母親は見覚えのない、都会的な雰囲気の人。せかせかと忙しさをアピールし、自分の都合を押しつける。土曜レッスンはないのかと高圧的。仮に入会してくれても、今後問題が起きそうな気配がプンプンする。潜在顧客でなければ関わりたくないタイプだ。  無意識に批判的な目を向けてしまっているのに気づき、心のなかで苦笑いする。今さら張りあったって意味などないという

【短編小説】バブリンガル

今年四月、大手乳幼児生活製品メーカーから赤ちゃん用翻訳機「バブリンガル」が発売された。 全国三千人の赤ちゃんの声を研究し、計算されたそれは、定番のお腹がすいた、オムツが気持ち悪い、眠い以外の泣き声の聞き分けは勿論、足が痒い、人が多くて怖い等の細かい声も的確に翻訳してくれる優れもの。 発売されて一週間も経たずに子育てが初めての新米ママを中心に大ヒット。保育園でも導入され、保育士さん達の手助けにもなった。 子が一つ泣けば的確に理由解決が出来る。「あー、うー」と言えば何を言って

【短編小説】 思い出箱

 「こうやってさ、お気に入りのものを小さい箱に入れておいてどっかにしまい込むんだ。そしてすっかり忘れちゃうの。何年も経ってから、あ、こんなのあったっけって開けてみるのすごいワクワクしない? 懐かしい気持ちと好きだったものへの想い、いっぺんに味わえるじゃん?」  そう言ったのは、同級生の須貝健道だった。健道は終始だらしない奴で、片づけもできないくせに自分の好きなものを大量に部屋に溜め込んで保管していた。けれど一方で心根の優しい純粋な奴だったので、僕はいつも彼と行動をともにしたも

【極超短編小説】離婚しましょ

 「離婚しましょ」  妻は帰宅するなりスタスタスタと俺の目の前までやって来て、ちょこんと正座すると前置きなしに言った。  俺は居間で胡座をかいて、ぼんやりとテレビを眺めていた。  「……そ、そうか、分かった」  俺は事前に準備していた言葉をなんとか言うことができた。が、心臓はバクバクし、薄くなった髪の毛の下の頭皮には薄っすらと汗が滲んだ。  予想していたとはいえ、妻の言葉を聞いたとき『ついにきたか……』と覚悟を決めざるを得なかった。  「本当にいいの?」  妻は俺の目を覗き込

【短編小説】その声に水色が見えた日

 今日はめずらしく東京に雪が降っていた。すっかり慣れた動きで適当な携帯番号を打ち込んでいたら八個目の番号でコール音が鳴った。 「……ぁ」  生きている番号にかけたのは久しぶりで、少し緊張する。 『もしもし』  受話器の向こう、若い男の声がした。 「はじめまして」 『あの、どちら様?』 「片桐と言います」  偽名だった。名も知らぬ彼は律義に『かたぎり、かたぎり』と呟いて脳内の知人フォルダを検索していたけれどヒットせず、謝罪を返す。 『すみません、どちらの片桐さんですか?』 「ま

(短編小説)「交代脳内」

 廊下には明かりがなく、手元さえ視認できない。  唯一の光は、少し先の扉の小窓から差し込む光だけだ。  斜めに差し込む光の中で、舞い上がった埃の欠片たちが複雑な模様を描きながら、また暗闇に消えていく。  なぜ自分がこんな場所に立っているのか、頭を働かせたが全く思い出せない。  眠りの淵から降りきっていないようなぼんやりとした気分のまま歩き出すと、靴の端に何かが当たった。  空気の抜けるこもった音は段ボールのそれで、確かめるようにもう一度蹴ると、箱の中にある物体の質量が足先に伝

【短編小説】湿布とワンボックスカー

 レシーブ練習のためのサーブを打ち込んだ瞬間、腰に激痛が走って呻きながら洋二はその場に倒れ込んだ。すぐさま副顧問の野中が対応をしてくれたが、部員たちに鬼軍曹と呼ばれ昭和世代の生き残りと揶揄されながら生徒指導の砦として威厳を保っていた面目は丸潰れだ。   診察を受ければギックリ腰といった突発的なものではなく、慢性的な負荷が積もりに積もって体が限界を迎えてしまったという完治しにくい類の腰痛で、これから一生付き合っていく覚悟を持たなければいけないと医師からは申告された。  そう告げ

【短編小説】桜の樹の下で(全文)

   桜の樹の下で   エピローグ  「卓也、お父さんが倒れた」  スマホ画面に出てきた文字を見て驚いた。何度か着信があったことに気づいた。慌ててラインアプリを開いた。  「卓也、お父さんが倒れた。今、救急車を呼んだところ。帰ってきて!」  すぐに電話をしたが留守電になってしまった。メッセージで返信した。  「母ちゃん、すぐ帰るからしっかりしてて」  母は体が弱く、日頃は心臓に病のある父が母の看病している。その母がこんなに慌てて連絡をくれたのは初めてのこと。  す

イマーシブフォート東京『ザ・シャーロック』を体験してきた ※2025年3月よりリニューアル!

※本記事は、アトラクションのストーリーに関するネタバレは一切ありません。 先日イマーシブフォート東京の『ザ・シャーロック』を体験してきました。 有料アトラクションで、人気の高いアトラクションの一つではありますが、 事前に知っておいた方が良いと思ったことなどを共有します。 気になっているけどまだ体験できていないという方や、もう一度リベンジしたい人に向けて情報を発信できればと思います。 アトラクションに入場するにあたってまず、入口にて口を覆うための黒いバンダナ(お土産とし

連載小説『この世界に、私の名はない』第1話

🕰 目覚めと違和感 目覚めとともに、違和感があった。 頭がぼんやりとする。昨夜は夢を見たはずなのに、何も思い出せない。 スマホを手に取り、いつものようにSNSを開く。 「……?」 プロフィール欄に違和感を覚えた。 アイコンはそのまま。けれど、そこにあるはずの名前が、ない。 設定ミスかと思い、編集画面を開く。 が、入力しようとした瞬間、指が止まった。 書けない。 何度試しても、脳が拒絶するかのように、指先が動かない。 心臓が早鐘を打ち始める。 ロック画面

【短編小説】虹の見える角度

 僕たちの乗った新幹線が大宮を出る頃、雨が上がった。窓際に座る妻を視界の端に入れながら、僕は窓の外を眺めていた。  妻のみゆきの親友が新潟にいる。山下美沙というその女性が緊急入院した。詳しい病状はわからないが、山下美沙さんの母から「是非来てほしい」という旨の泣きながらの電話をみゆきが受け、今二人で新潟に向かっているのだった。  みゆきはLINEでのやりとりに忙しい。誰とやりとりしているのかはわからないが、美沙さんのことであることは確かだった。  心配、だよね。でも、大丈夫

【短編小説】スキー場の魔法

 レストハウスに設けられた大きな窓から、メインリフトと、リフトを上がって、その脇を滑り降りてくる人々が見える。  翔子は、その様子を目に入れながら、手元のホットコーヒーを口に含む。周りがスノーウェアに身を包んでいる中、一人、通常服の翔子の存在は目立つかと思われたが、スキーを目的に来ている人々は、周りに注意を向けることはなかった。  「ここ、いいですか?」  声をかけられた先に目を向けると、滑ってきたばかりと思われる若い女性が、翔子の隣の席を指差している。お昼が近くなって

連載小説「お弁当屋の笑子さん」 第一話 笑子さん

 むかし、盲目の人の家に友人とうかがったことがあった。初めての訪問でわたしは不安もあったけれど(それは夜だった)、電気がこうこうとついている彼の部屋はすっきりと整えられていて、わたしは意外だと思ったことを覚えている。床は、まぁ掃除が行き届いていないので埃や髪の毛だらけなのは致し方ないとして(彼には見えないので)、もっと全てが雑然としている、と想像していたのだ。  マグカップ、紐付きのティーバック、台ふきんなどにはむろん点字などはついていない。だけどそれらの日常で扱うものたち

【小説】人間になれました

「わたし、やっと人間になれました」  その女は言った。小さくつぶらな目をした、人懐っこそうな若い女であった。 「前世は犬だったんです。老夫婦にとっても可愛がられた白いマルチーズで。いつも耳の毛に赤いリボンをつけてもらってました。老夫婦は子供がいなくて、わたし、随分苦心して喜んでいただいたんですよ。どうやら善行と見なされたようで、人間になれました。わたし、老夫婦に笑ってほしかっただけなのに」  女は手を少し上げ、曲げた人差し指の関節を口元に持って行って、ころころ笑った。い