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連載小説「お弁当屋の笑子さん」 第一話 笑子さん
むかし、盲目の人の家に友人とうかがったことがあった。初めての訪問でわたしは不安もあったけれど(それは夜だった)、電気がこうこうとついている彼の部屋はすっきりと整えられていて、わたしは意外だと思ったことを覚えている。床は、まぁ掃除が行き届いていないので埃や髪の毛だらけなのは致し方ないとして(彼には見えないので)、もっと全てが雑然としている、と想像していたのだ。
マグカップ、紐付きのティーバック、台ふきんなどにはむろん点字などはついていない。だけどそれらの日常で扱うものたちを、全盲の彼は迷いなく手に取り、やすやすと訪問客たちにお茶をもてなしてくれたのだった。
必要な場所に、必要なものがある。
むしろ必要なものだけに囲まれる生活は、わたしには案外、穏やかで、安心できることなのだと、彼と出会って初めて知った。
それで、いろいろなものを手放した。
服やら食器やら雑貨やら、日用品。そして、友人。そして、両親。
リセット。
いま、わたしはひどく穏やかに毎日を暮らしている。
おなじ時間に目覚め、おなじものたちに囲まれ、最低限の選び抜いた存在たち——だからわたしの家にはテレビだとか、ラジオだとか、ソファだとか、こたつだとか、一般的な家にあるようなものがない——と、毎日を暮らしている。
目覚めると部屋はくらかった。睡眠の質を高めるための遮光カーテンのおかげで、この寝室に太陽の光は届かない。わたしはゆっくりと起き上がり、掛け布団を半分に折った。ベッドメイキングはしない。寝ているあいだに体から放出された水分などを敷布団から開放するために、掛け布団はめくったままにして、それから朝の準備に取りかかった。
オフホワイトのリビングの角に、植物ふたりが住んでいる。
「おはようございます、大豆ちゃん」
のびのび育ったパキラに向かって朝の挨拶をした。大豆ちゃんは葉をふるわせて返事をする。声の調子もいつもとおなじ。わたしは接客業なので、毎朝の声出しで己の体調を観察する。
「おはようございます。小豆ちゃん」
パキラの隣にちょこんといるのは小さくてまぁるいサボテン。多肉にもきちんと挨拶をすると、小豆ちゃんも心なしか棘をぴんと尖らせて、返事をしてくれたような気がした。
やかんで湯を沸かしているあいだに台所で歯磨きをした。背中に誰かが立っている気配はするが、実際はそんなことはあり得ない。夫はもういないので、この家にはわたしと、大豆ちゃんと、小豆ちゃんしかいない。
むかし、夫はわたしの後ろに立つと、歯を磨き終えたわたしと朝の挨拶をした。
頬と頬をくっつける挨拶。別室からやって来た夫の頬は、さらりとしてつめたい。ぴと、とくっつけて、それがわたしと夫の唯一の肌の触れ合いだった。それ以上お互いに踏み込むことはしなかった。恋愛ではないからだ。夫婦で支え合って慎ましく弁当屋を営んでいる、その情報だけがわたしたちには必要だった。
ひとり、歯を磨いて口をすすぎ、沸騰した湯で珈琲を淹れた。ふたり分。黒褐色の珈琲を入れたマグカップはリビングにぽつんと設置してあるサイドテーブルに、もうひとつのマグカップに濃く淹れてあたたかいミルクで割ったものを作り、ダイニングテーブルに置いた。
わたしは珈琲が好きではないが、夫に毎日淹れているうちに飲むことが習慣になってしまった。好きではないのでミルクをたっぷり入れることにしている。それとたっぷりのお砂糖も。
(お待たせいたしました)
写真立ての前に置かれたブラック珈琲から香ばしい匂いがふわふわと漂っている。その安心する匂いに包まれながら、わたしは薄い化粧を施した。口紅はまだ塗らない。いま塗ってもカップについてしまうから。
弁当屋を営むわたしの朝は早い。夏はぼんやりと明るく、冬はほとんど暗いうちに起きる。
全てを手放してリセットしたわたし——笑子は、夫と出会い、それから一緒に暮らし始め、夫と一緒に弁当屋を始めた。
(今日も一日、頑張りましょうね)
化粧をしているあいだにやや冷めてくれたミルク珈琲に口をつけ、むかしのことを頭から追い出した。余計なことは考えないようにしている。だからこそ、日課を大事にして、いまこの一瞬に集中しようとしているのではないか。
日課。
これがないとわたしは一日をうまく生きられない。
まるで……そう、全盲の彼のように、あるべきところに必要なものがないと、混乱してしまう。生きられなくなってしまう。
「行ってきます」
写真立てのなかで微笑む夫と植物たちに挨拶をして、わたしはいつもとおなじ時間に出勤した。
とはいえ、実際は隣の建物に移動するだけだ。わたしの弁当屋は歩いて五分の場所にある。自宅のアパートを出てすぐ横の、戸建ての一階がお店なのだ。二階は大家の和恵さんが住んでいて、さらに言うとアパートの大家も和恵さんだ。わたしは、自宅と、お店として借りている分の二種類の賃貸料を彼女に支払っていることになる。
二階で暮らしている和恵さんにご迷惑がかからぬよう、そっとお店に入った。毎日作るお弁当は三十個だけ。これ以上は作らない、いえ、作れないと言うことにしている。
夫とふたりで立ち上げた「お弁当 こうそ屋」ももう五年くらい経つ。ながいあいだよく持ちこたえたものだとわたしは時々びっくりしてしまう。個人経営のお店で、しかもお値段だって高いほうなのに。
手を洗い、昨晩準備していた米の状態を確認した。
大きな——まるで小さな猫ちゃんやワンちゃんが頭からかぶったら隠れてしまうのではないかというほどの——銀色の業務用ボウルには、玄米と、豆が数種類入っている。一粒たりとも溢れないよう注意をして(これはとても重いので)わたしはザルに米と豆をザラリと入れた。水切りだ。そのあいだに店のガスの元栓、ガス給湯器のスイッチを準備していった。
「ふぅ……」
ガス式の大きな炊飯器に炊飯ネットを敷いた。水切りが終わればネットの上に米と豆を入れて、適量の水と塩を入れて、蓋をしてスイッチオン。
これが弁当の要となる「酵素玄米」の仕込みの一つである。
『これを炊いたやつが、お弁当に入っているのかね?』
と、開業当初に和恵さんが酵素玄米の炊くところを眺めて言った。
『いえ、いま炊いているのはまだ使わないんですよ』
『え? どうしてだい?』
『炊きあがったばかりのこれは、色が付いていないんです』
当時、夫が和恵さんに話すと、彼女は訳が分からないという顔をした。
『酵素玄米にするには、数日間寝かせなくてはならないんです』
わたしは二升用の大きな保温釜をあけた。
これがこの店に三個並んでいる。
一日寝かせた釜、二日寝かせた釜、三日寝かせた釜が今日使う分。三日目の釜のなかにはふっくらとして赤みがかった酵素玄米ができあがっていた。
「美味しくできました」
わたしはうっとりと香りを嗅いで、手近にあったスプーンで味見をした。匂い、色、食感。いつもおなじでなければ商品として出してはならない。
今日使う酵素玄米の状態をチェックし、わたしは口角を上げた。
(ごはんは良好。それではおかずを作りましょう)
お店のロゴマークが書かれたエプロンの紐を締め直し、いつもとおなじようにお弁当の容器をだだっぴろい作業台に並べていった。
卵焼きのための鶏卵、ブロッコリーを茹でるための湯を沸かし、ただひとりのお客様用に作るさつまいも(既に輪切りにカットしてある)を冷蔵庫から取り出した。これらは当日朝に調理する必要があるものだ。
お弁当三十個を作り、残った酵素玄米は一合から単品ごはんとして売っている。最初は予想がはずれたりして廃棄になってしまったこともあったが、夫と死別して再スタートしてからは慎重にずっとおなじ毎日を続けている。
ロスは、ほとんどない。
それがわたしを安心させている。
卵焼きも茹で野菜もできたので、粗熱を取っているあいだにおかずを詰めていった。副菜は前日に作っておいたものを朝は詰めるだけ。
無心になってわたしは菜箸を動かす。
無音の店内で集中して一気に仕上げる。
一段落し、本日二度目のミルク珈琲を飲んでいると、トトン、トトンと足音がして階段から和恵さんが現れた。
「おはよう、笑子ちゃん」
「おはようございます。和恵さん」
歩き方を見て、彼女の膝の調子を確認した。七十四歳の彼女は膝関節が悪くなってきているのだ。胴回りにくびれはなく、この年代にはよくある体型ではあるものの、決して手放しで褒められる健やかな状態ではないと感じている。
「本日のお天気は快晴だそうですよ」
わたしが言うと、和恵さんが苦笑いをした。
「あら、そう。それって暗に『散歩したらどうですかー』って言っているのかい?」
「いえいえ、そんなことは。お天気の話をしただけですよ」
「ふふ、目が言っておりますよ。しっかりとね。……散歩ねぇ。お医者さんにも毎度言われているからしないといけないんだけどねぇ……」
和恵さんが階段付近からお店の窓をちらりと見た。雲一つない青空がぽっかりと見えていた。
(そろそろね。「お弁当 こうそ屋」のお弁当たちが出発する時間は)
飲み終えたカップを流しに置き、わたしはオープン準備に取りかかった。
最後に壁付け鏡を覗き込み、それからにこりとする。
(名前に嘘をつかないよう、笑顔でいないとね)
わたしは微笑んで、小指でそっと唇に紅をさした。
(つづく)
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