nnsoloneal(ンンソロニール)

鹿児島に産まれ、東京で暮らす音楽狂。 音楽があるから生きる意味があり、表現をするから正…

nnsoloneal(ンンソロニール)

鹿児島に産まれ、東京で暮らす音楽狂。 音楽があるから生きる意味があり、表現をするから正気を保てています。

最近の記事

「2014(30歳)」

ライヴ活動の場を増やしたいと新宿のANTIKNOCKでライヴをやらせてもらうようになった。 人生に多大な影響を与えられたGAUZEと同じステージに立てた事は凄く嬉しかったし、1つの到達感もあった。 ANTIKNOCKのブッキング担当からはライヴの感想は割と良い反応だった記憶がある。 しかし、ライヴに来てくれる人は1人も増えず、ライヴをやる度に毎回万単位のノルマを支払っていた。 自分としては手応えのあるライヴをやれるようになっていたが、どうすれば動員が増えるのか全く分からなかっ

    • 「2012〜2013(28、29歳)」

      俺は新木場にあったSTUDIO COASTという3000人くらいの大きなキャパのライヴハウスの雰囲気が大好きだった。 2011年の春だったか、新宿のSHIPSにageHaのマンスリースケジュールが置いてあり見てみると、STUDIO COASTにはメインフロアー以外にも、こんなにも面白そうなフロアーがあるのかと興味を持った。 DJオンリーのマトモなクラブイベントは行った事が無かったが行ってみたいと思い、スケジュールを毎月チェックし、2011年の10月に初めてageHaへ行った

      • 「2010〜2011(26、27歳)」

        日雇いの建設現場の仕事の日々。 毎日違う現場で大して給料も良くないので嫌気がさしていた。 毎日同じ仕事場で働ける事がいかに良い事なのかを思い知った。 去年7月に辞めた会社のホームページを見てみると求人があったので、以前働いていて、ふと辞めてしまった事や、また頑張りたい熱意を書いてエントリーした。 しかし面接をして貰う事もなく落とされた。 最後らへんは大して貢献出来ていなかったからだろう。 このショックはかなり大きくて何もする気にならなくなり、日雇いの仕事もせずに10日ほど

        • 「2007〜2009(23〜25歳)」

          建設現場の日雇いの仕事をしながらも定職を探していた。 この頃は最初に働いた会社のトラウマと、社会への不信から正社員には絶対にならないと決めていたから、ずっとアルバイト雇用で探していた。 2007年3月。求人誌に載っていた「資料発送の仕事」という名目で凄く雰囲気が良さそうな仕事が目に入った。 時給もかなり良く、これは難しい技術が求められたりするんだろうと思った。 一か八か電話してみると凄く感じ良く対応され、すんなりと面接が決まった。 面接当日に着いた綺麗で立派なビル。 全く受

          「2005〜2006(21、22歳)」

          闇から立ち上がれたのは良かったものの、2003年のトラウマと傷からはまだ立ち直れていない部分もあった。 イライラが募るとブチキレてリモコンや物を壊したり、やたら落ち込む事があった。 そして俺の受けてきた痛みと怒りを理不尽な社会や、俺を苦しめてきたような自分勝手なヤツらや心無いヤツらへ向けて表現してやる!という復讐心に満ちていた。 学校の教育とは社会に従順な奴隷を作り上げるためのものだったんだな! 夢や自由を謳って騙しやがって! 俺を虐げた社会の言いなりなんかになってたまる

          「2005〜2006(21、22歳)」

          「2004年(20歳)」

          年が明け2004年、実家の鹿児島へ初めて里帰りした。 家族は温かく迎えてくれ、ずっと確執があった親父も優しく迎えてくれた。 長男だから初めて家を出た時、母親は一週間近く毎日寂しくて泣いていたらしい。 当たり前のように毎日家にいた俺が上京して、いなくなる事によって俺に対する接し方が明らかに変わったのを感じた。 久々に人の温かさを感じるも、久々に会えたのが嬉しかったのか俺はドン底にいて、その事を言っても中々伝わらなかったのは悲しかった。 祖父も全く受け止めてくれず、喜んでいるだ

          「2003(19歳)」

          2003.3/24 俺は地元の鹿児島を飛び立ち、就職先の千葉へ到着した。 今でも3/24になるとこの事を思い出す。 初日から会社の寮に入った。 同じように各地から上京してきた同期が10人ほどいた。 やはり同じような不安を抱えているかのようで最初は皆静かだった。 入社の前に講堂のような場所で仕事の内容やらマインドやらの長い研修があった。 その中で1つだけ強く印象に残っている事がある。 「会社から必要とされる人間。会社にとって害になる人間。」 といったような内容で、仕事が出来な

          「2000〜2003(16〜18歳)」

          高校は家から電車で通っていた。 中学時代に女子にバカにされまくった事から男しかいない学科に入ったが、女子がいないと華がなくて後々後悔した。 部活は中学と同じく弓道部に入ったが、2年の時に辞めて帰宅部となった。 クラスの雰囲気に上手く馴染めず、余り喋らず休み時間も自分の中に閉じこもっていたような状態だった。 そのうちヤンキーみたいなヤツに目をつけられイジメが始まった。 そいつは殴ったりの暴力を振るいコンパスの針で手を刺そうとしてきたりした。 担任は見てみぬフリをしていた。 そ

          「2000〜2003(16〜18歳)」

          「1997〜1999(13〜15歳)」

          新築したマイホームのすぐ近くに中学はあった。 「中学は勉強に専念しろ」と趣味だったゲームを禁止されたのは悲しかった。 でもその入れ替わりで中学に入る前に音楽が好きになっていった。 1番最初に買ったCDはSMAPの「ダイナマイト」で、2番目に買ったCDはJUDY AND MARYの「くじら12号」だった。 1番最初に買ったアルバムはglobeの「FACES PLACES」で、このアルバムのオリジナリティーとクールさとエモーショナルさは凄まじいものがあって、今でも愛聴している大好

          「1997〜1999(13〜15歳)」

          「1984〜1996(0〜12歳)」

          「犠牲の誕生」 地球に産まれてくる事の何がめでたい事なのか この世は地獄さ 生存という名の苦しみへようこそ これからどれくらいの悲しみを与え、悲しみを受け続けるんだろうね もう随分と経ったけれど 俺は未だに慣れやしないよ 生きる為に犠牲を産み 犠牲がまた犠牲を産み 生き残る為なら平気で犠牲を産む奴等だっている それが本能だと言う奴もいる 正当化しやがる悪の楽観 お前らには適材適所 犠牲の上に存在している命 産まれてくる現実を選ぶ事が出来るなら この現実は選ばないし 二度

          人生四十歳記念集大成自叙伝「僕我俺(じぶん)」

          僕はNNSOLONEAL(ンンソロニール)という名前で音楽表現をやったり、ライヴなどの感想を書いたりしています。 僕は今年2024年の12月18日に40歳を迎える事になります。 35歳になった時に、40歳まで生きれたら自分の人生40年を作品にしようと決めていました。 40歳。20年の2倍と考えると尋常じゃない時の流れであり、今までの人生40年を精算して40代を進んでいきたいと思っていました。 ただ文字だけだと面白くないので、この自叙伝のために5曲、新曲を作りました。 幼少

          人生四十歳記念集大成自叙伝「僕我俺(じぶん)」