「2003(19歳)」

2003.3/24
俺は地元の鹿児島を飛び立ち、就職先の千葉へ到着した。
今でも3/24になるとこの事を思い出す。
初日から会社の寮に入った。
同じように各地から上京してきた同期が10人ほどいた。
やはり同じような不安を抱えているかのようで最初は皆静かだった。


入社の前に講堂のような場所で仕事の内容やらマインドやらの長い研修があった。
その中で1つだけ強く印象に残っている事がある。
「会社から必要とされる人間。会社にとって害になる人間。」
といったような内容で、仕事が出来ない人間は価値がないかのような差別的な言い回しだった。
人を機械のように扱う内容に俺は無慈悲を感じ、凄く違和感を感じた。



入社式があり何日かすると仕事が始まった。
仕事内容は着陸した飛行機内の清掃業務。
寮から専用の通勤バスで通っていた。
シフト制で勤務時間も休みもバラバラで、定時としては朝6時から14時か17時まで、13時くらいから22時まで、15時から23時までといった感じで、その後に1日か2日の休みがあり仕事始まりは朝早くからだった。
更に残業が月に30〜40時間あり、毎日のように2、3時間以上の残業があった。



休みが終われば仕事は朝早くからで休み前は夜遅くまで。
学生時代の朝起きて夕方に帰って夜に眠るという一般的な生活とはかけ離れていた。
この時期の流行りの曲や当時のテレビ番組は全く記憶にない。
曜日感覚が全くなくなり、予定を立てるのも難しく、段々と人間味を感じなくなってきて精神的に落ち込むようになってきた。
俺が去年望んでいた生活とは余りにもかけ離れていた。
社会知らずの高校生を雇うには持ってこいだったと言う訳だ。
望まれるのは何があっても文句を言わず、問題を起こさず機械のように仕事をこなす服従という名の真面目な人種だ。



そんな中で何とか予定が合い、上京後に初めて行けたライヴは6/28の渋谷CLUB QUATTROで開催されたHAWAIIAN6出演のライヴイベントだった。
HAWAIIAN6は最初に登場し、当時はメンバーのルックスをよく知らない状況だったので初めてみるメンバーに深く感動した。
このメンバーがHAWAIIAN6のあの素晴らしい楽曲を産み出しているんだ!



ライヴの楽しみ方をまだ良く知らなかった俺は前方で揉みくちゃになり動きにくくて最大限楽しめた感じでも無かったが、メンバーを見られた感激とライヴの熱さに感激でいっぱいになり1つ夢を叶えたような感覚だった。
また絶対に行きたいと思えた。


続いて、またしても予定が合い、チケットを譲って貰って7/3のDir en greyのライヴに行く事も出来た。
この頃は円陣があり、ライヴ前に輪になって好きなメンバーの名前を叫ぶ行事があって自分も参加した。
ライヴ前からその熱さに感激した。
この日はファンになった2000年にリリースされたアルバムMACABREからの楽曲を中心に組まれたセットリストだった事も感激しまくった。


MACABREの中盤で幕が上昇してメンバーが姿を現した時は感激で涙が出た。
2000年からファンになり3年越しの夢が叶った。
LUNA SEAの時には叶えられなかった夢。


激しい曲ではダイブが起きまくり、聴かせる曲はどこまでもエモーショナルで、自分を追い詰めるように悲痛に溢れた「理由」と「ザクロ」は当時の自分の心境を表現してくれていたかのようで涙が出た。


やっと見られたDir en grey。
熱狂と痛みのシンパシー。
この日の感激は一生忘れられない。
この2本のライヴで尋常じゃないくらいに活力を貰え、辛い状況だけどライヴの為に頑張ろうと思えた。


しかし仕事のキツさに加え、俺は夏くらいから10個くらい歳上のヤツから嫌がらせを受けるようになった。
すれ違いにボソッと悪口を何度も言われ、ミスをすると嫌味ったらしく何度も言われた。
それは辞めるまで何度も続いた。
ソイツは仕事をサボったりしてるくせに偉そうな態度を取り、周りからも嫌われていたが歳が上の方だった事もあり本人に直接注意するような人はいなかった。


今だったらそんなヤツがいたら確実に立ち向かうが当時は周りに言ったり、本人に抵抗したりはしなかった。
まだ10代だったから10も離れている大の大人に立ち向かう事が怖くて出来なかった。
ただでさえストレスを超えた状態なのに、そんな事まで起きるものだから、どんどん精神がブッ壊れていった。



俺はソイツが心から嫌いになった。
どうにかして死んでくれと毎日思っていたし、こんなにも救いようがないくらいに性格が悪いヤツがいるのかと衝撃を受けるレベルだった。
心から人を嫌いになる経験をすると人生が変わってしまう。



この時期の事を明確に思い出すのは今でも辛いし本当はやりたくない。
それでもこの事は自分の人生の大きなトピックなので書かないと成立しない。
だからこれが最後だと古傷を抉り血を流しながら書いたような気分だ。
仕事を辞めた後もソイツへの憎しみは何年も消える事はなく仕事を辞めた後でも、もし数年のうちに偶然街や駅で出会ったりしたら、その瞬間に問答無用で半殺しにかかっていたかもしれない。



心無い事や自分勝手な事を忌み嫌い、普段から徹底的に批判するのはこの時期の経験があるからだ。
自分の楽曲でも、そんなヤツらへの批判の曲は沢山書いてきた。
そして俺はソイツみたいには絶対にならないぞと誓った。
俺がソイツみたいに自分勝手に平気で人を傷付けるような人間になって、のうのうと生きるようになった日には今すぐに死ぬべきだと思っている。そんな自分は殺してやる。



苦しみに更に苦痛が重なり、HAWAIIAN6がこの時にリリースした「ACROSS  THE ENDING」に収録されている「LAST DANCE」の和訳は当時の自分の事が歌われているかのようだった。
そんな中でも「A PIECE OF STARDUST」の和訳に感銘を受けたから腐らずに生きてこれた気がする。


9/20にKEMURIのツアーに行き、その翌日に事故でメンバーの森村さんが亡くなった。
当時は情報を知るのが早くなかったから何日かしてから知ったが、これが自分にとって初めて関係ある人の死だった。


何とも言えない気持ちになった。
納得がいかなかった。
何故、沢山の人を喜ばせられるバンドのメンバーが亡くなるのに平気で人を傷付けるようなヤツが生きていたり、生きているのが苦しくて死んだ方が良いような俺が生きているんだろう。
俺が代わりに死ねば良かった。
当時は病んでいたから、こんな事を思っていた。


早々にこういう経験をしているから、人が明日も生きていると当たり前に思う事がない。
今日で会えるのが最後だったかも知れないと常に思う。
ライヴも今日が見るのが最後だったかも知れないと思うから軽い気持ちでは見られない。
後悔ないようにしっかり体感しようと、いつも思っている。



それなのに大体の人は死んでしまう事を遠い絵空事のように思っている気がする。
死ぬ事とは生きる事と同じくらい間近なものであるはずなのに。
当たり前のように明日がきて、1年後、5年後、10年後が来ると思っている。
明日終わりがくるかも知れないと本気で思えば、大切な人をもっと大事にすると思うし、自分の人生をより大事にすると思う。



家族にも大して今の状況を話さず、当時は何人かメル友(メール友達:メールで話し合う仲)はいたものの病んでいってどんどん閉鎖的になって自分の味方なんか1人もいないような状況だった。
次第に解消できないストレスから自傷するようになり、同期に傷を見られて驚かれてより孤立していった。
悪影響を考えて自傷の内容は書かない。



そんな中で俺を励ましてくれたのは、感銘を受けている音楽だったり、何とか休みが合ったり有給を使って行ったライヴだった。
最低最悪な実生活とは余りにも違う、ライヴの光景に同時は何度も涙した。

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