「1984〜1996(0〜12歳)」

「犠牲の誕生」


地球に産まれてくる事の何がめでたい事なのか
この世は地獄さ
生存という名の苦しみへようこそ
これからどれくらいの悲しみを与え、悲しみを受け続けるんだろうね
もう随分と経ったけれど
俺は未だに慣れやしないよ


生きる為に犠牲を産み
犠牲がまた犠牲を産み
生き残る為なら平気で犠牲を産む奴等だっている
それが本能だと言う奴もいる
正当化しやがる悪の楽観
お前らには適材適所
犠牲の上に存在している命


産まれてくる現実を選ぶ事が出来るなら
この現実は選ばないし
二度とこの現実に生は受けたくない
そんな現実でも生きる意味を見つけられたから生きてこれただけさ
現実そのものを愛せやしない


初めは自分の理想を叶える事を夢みていたのに
いつからか自分の思う通りにならない事を嘆きながら生きている
理想を殺しきれない俺はバカなのさ
だけど間違いなくこの世は地獄だろ


生きる為に犠牲を産み
犠牲がまた犠牲を産み
生き残る為なら平気で犠牲を産む奴等だっている
それが本能だと言う奴もいる
正当化しやがる悪の楽観
お前らには適材適所
犠牲の上に存在している命


今日も誰かの生きる為のエゴが
俺を突き落とそうと襲いかかってくる
真の平和と自由
究極の理想
この地獄からの解放を夢見てる
けれどまだ捨てられない現実
見つけてしまった生きる意味
この地獄の中にある愛へ向かって生きている


1984年12月18日。
俺は鹿児島のド田舎に長男として産まれた。
兄弟は妹と弟がいる。
1番最初の記憶は実家が2階建に増築される前に使用していた玄関のすぐ横にあった部屋で暮らしていたこと。
次の記憶は幼稚園に入った時からイジメにあっていた事。
ひ弱な雰囲気のある俺は危害を加えたくなる本能を掻き立てられたのかも知れない。



小学校に入ってからも何度もイジメの暴力にあった。
殴られ蹴られ、力の無い俺は何も返す事が出来ず家に帰ってからは泣いてばかりいた。
当時は恨みよりも悲しみが大きかった。
何故、俺がこんな目に遭わなければならないのか。
親に言っては学校へ報告し、マシになったりまた危害を受けるの繰り返しだった記憶がある。


小学2年の時に何故か実家から近所のマンションへ引っ越した。
当時は理由が分からなかったが、大人になった時に理由は分かる事になる。
頻繁に両親はケンカをしていた。
余りにも激しい言い合いに離婚するんじゃないかと恐れ、離婚したら生活はどうなるのかなどの不安でいっぱいになった日が何度もあった。
基本的に争い事や揉め事を嫌うのは、この時の影響がある。



その時の生きる楽しみはテレビゲームのスーパーファミコンだった。
スーパーマリオなどの任天堂のアクションゲームや、パワプロが楽しくて、その時に野球のルールを覚えて野球が好きになった。
欲しいものは年に1回だけクリスマスプレゼントに買って貰った。
お年玉は将来の為にと全て親の手元に行ってしまい、年に1度だけゲームのソフトを買って貰うような状況で、お年玉で欲しい物を沢山買っていた同級生が羨ましかった。
数少ない同じソフトで繰り返し遊ぶ日々。
満たされない気持ちが常に大きかった。



他に楽しみといえば親戚で実家に集まって会食をし、親戚とかくれんぼをして遊んだりカラオケを聞いたりするのが好きだった。
人が集まって賑やかに楽しく過ごす事が好きだった。
これが後のライヴ好きに繋がっていると思う。


小3の時にしばらくすると母は入院するようになった。
重症筋無力症という明確な原因が分からない病気。
過大なストレスが原因だったのではないかと母は言っていた。
マンションに引っ越した理由。
それば祖母が母にキツく当たっていた事が原因であった事を大人になってから聞かされた。


一切笑ってはいけないと言われていたらしく笑ったり冗談を言ったら怒られ、他にも色々厳しく当たっていたようだ。
小1くらいの時だったと思うが、その時は全く気付かなかった。
父親は祖母側につき全く助けてくれなかったらしい。


俺は祖母や祖父からは厳しく当たられた記憶は無く、毎週末泊まりに行くくらい良い関係だった。
それだけに、この話を聞いた時はショックではあった。
非常時を考え、いつも無駄におつまみ系のお菓子をバッグに詰めて持っていき、祖父からは嫁入り道具と呼ばれていた。
ただのおつまみなのに非常食という事で一切手を付けず腐るまで持ち歩いていた。



祖母は母に後々は謝ったらしいが、姑問題とは悪しき感情が生まれてしまうのかも知れない。
誰もがこういう問題を抱えるものではないかも知れない。
だが俺の母親が犠牲になった事は事実だ。
そんな事になる可能性をさしおいて、手放しで結婚を祝福する世の中のムードには心底、俺は不快感を覚える。



結婚とは覚悟を決めるものだと思っている。
何を浮かれているのかが分からない。
俺の母親みたいになった時に嫁を助ける事が出来るのか?
だけど俺はこの事実を知れて良かったと思っている。
この過ちから得られるものがあり、こういう事が他に起きて欲しくないと、このように訴えかける事が出来るからだ。



小学時代の俺は妙なものにやたら怖がったりする事があった。
他所のトイレは落下するような気がして怖くて小便しか出来なかったり、風呂の追い焚きの炎のマークが表示されると火傷するんじゃないかと恐怖を覚えて急いで出たり、歯医者では恐怖のあまり大暴れし、6人がかりで押さえつけられて治療してもらった事もあった。
ただの被害妄想で相当なバカなだけだった訳だが、変なところで相当手間がかかったと思う。



小5の時に実家の裏の近くにマイホームを建ててマンションからそこに引越した。
小5になるとまたもや俺に危害を加える奴が現れる。
そいつはデブでプロレスが好きで関節技を俺にかけてくる。
ガリガリで力のない頭も悪い俺はやり返す事や抵抗する事もできず何も出来なかった。
自我を持っていれば何かしら仕返しはしただろうが当時はしなかった。
他にも頻繁にバカにされたり色々あった。



俺はノートにゲーム関連の落書きをしまくっていて授業に集中していなかったようで、机を教卓の真横に設置され問題児として扱われていた。
もう1人同じ扱いを受けた人がいたが、その人は授業中ずっと喋っているからという理由だった。
それを見た親がびっくりしていたのを覚えている。
自分の子供がここまでの問題児扱いされていたのはショックだっただろう。



小6の時、俺は卒業文集に俺に危害を加えた奴らを名指しで書き、洗いざらい危害内容を書き、恨み辛みを綴って提出した。
これが俺の人生初めての抵抗だった。
すると担任が俺の自宅へやって来て「卒業文集でこれはまずいから書き直しして欲しい。」との事だった。
名指しで書いた人たちには担任から直接注意はしてくれて、少しは危害が沈静化した覚えがある。



あの恨みの報復文が卒業アルバムに掲載されて、大騒ぎになる事を楽しみにしていたので、それが出来なかったのは残念だったが、初めての抵抗は少し気持ち良かった覚えがある。
書き直した小学の卒業文は当たり障りのない中身の薄い内容になっている。



これが俺の最初の記憶から小学時代。
もう随分と昔の話だから記憶が曖昧なところもあるが、良い思い出といえば親戚の集まりが楽しかった事くらい。
そして中学は自分も周りも狂いまくりの狂気の園となる。

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