「2010〜2011(26、27歳)」
日雇いの建設現場の仕事の日々。
毎日違う現場で大して給料も良くないので嫌気がさしていた。
毎日同じ仕事場で働ける事がいかに良い事なのかを思い知った。
去年7月に辞めた会社のホームページを見てみると求人があったので、以前働いていて、ふと辞めてしまった事や、また頑張りたい熱意を書いてエントリーした。
しかし面接をして貰う事もなく落とされた。
最後らへんは大して貢献出来ていなかったからだろう。
このショックはかなり大きくて何もする気にならなくなり、日雇いの仕事もせずに10日ほどひたすら寝込んだ。
その後大分立ち直って、また同じような仕事を見つけようとなり経験を売りに面接し、採用を貰った時は本当に嬉しかった。
やっと久々に定職に就く事が出来る。
仕事内容は前回とほぼ似ているので割愛するが、シフトを自由に決められて、中盤まではそこそこ結果も残せたので良かった。
そしてMTRとキーボードを購入し、狂命のデモ作りと新たな音楽表現「ンンマ」を始めた。
「狂命」はエレキギターとドラムのバンドサウンドだが、「ンンマ」は固定概念に囚われず、自由に音で自分を表現する事がテーマだった。
Aphex TwinやNINE INCH NAILSのように自由自在な音楽をやりたかった。
4年ほど自分の頭の中にしかなかった自分の
音楽をCD-Rに焼いて、初めて形に出来た時の感激は凄まじいものがあった。
これで自分の音を誰かに聞かせる事が出来るんだと。
「ンンマ」で1週間で10曲作った。
子供のように思うがままに音を出して重ねただけの楽曲。
曲名も「サキコマドホーネスティリー」やら「ネケ」やら造語ばかりだった。
グルーヴやアンサンブルなんか全く意識していないから、今の自分からすれば音楽とはとても言えるものではない。
今も音源は持っているが、とても聴けたものじゃない。
音楽としての面白さや楽しさが何一つ起動していない。
ただ音を出して重ねるなら誰でも出来る。
楽曲とはその人が音を出して、それを音楽だと言えば、その時点で音楽なのだ。
曲を作るなんて実は誰にでも出来る。
ちゃんと自分のイメージがあって、それを忠実に音にアウトプット出来るようになるには、ある程度の技術とセンスが必要になる。
自分がそうなれてきたと思えるのは、ここからかなり先になる。
仕事が秋くらいになると上手くいかなくなり、職場が主婦ばかりで同年代が全くいなかったので孤立していった。
以前の会社とはそこが違い、活気もなく温い感じの雰囲気が嫌になっていった。
これ以上は続けられないと思った。
自分が仕事を辞める条件としては、
1.賃金が低くなり生活が出来なくなる。
2.時間帯や住居地の変化など生活環境が激変してしまう。
3.会社の都合を優先されて自分の時間がなくなる。
4.これ以上続けたら心身のどちらかが壊れる。
としているが、今回は4に該当した。
1の陰りも見え隠れしていた。
年が明けて2011年。
2月にその会社を辞めて同じような仕事で、もっと同年代がいて活気があるような会社を探して面接し、採用された。
新しい会社で勤務してから3日目。3/11に東日本大震災が起きた。
15時になる手前、業務を行っていたが今までに感じた事がない激しい揺れが起きた。
会社のビルから出たら沢山の人が外に避難していた。
そのまま仕事は終わりとなるも、電車は終日運休となっており、地図を持っていなかったので線路を伝いながら新宿から埼玉まで7時間くらいかけて歩いて帰った。
同じような人が何人もいた。
夜中の1時くらいに帰り着くと、特に部屋に被害がなかったのと無事に帰り着いた事で安堵した。
翌朝にテレビを見ると、とてつもない被害が出ている事を知った。
数日、テレビは震災の事しかやっていなかった。
暫くすると計画停電が始まり、俺の住んでいた埼玉地区も対象で2、3時間は町の明かりが一切ない異様な雰囲気となった。
真っ暗な部屋でただ携帯を見たりしていた。
もう世界は元には戻らないのか?と思ったりしたが、4月に入ってからは関東の生活は元に戻っていった。
この震災の復興が2011年内はずっとテーマとして続いた。
この震災がきっかけで自分が大きく変わったとは思わないが、社会の何かが確実に変わったと思う。
終戦から日本は色んな楽しみや便利さを築いて再建していった。
そしていつからか楽しみや便利さが当たり前になり、命や健康よりも金や優越感を求めるようになり、どんどん息苦しい雰囲気になっていった。
そんな時代に一瞬にして沢山の生活や人生が終わってしまう現実が叩きつけられた。
震災以降、ブラック企業やパワハラという言葉が登場するようになって、少しは命を大事にするようになった気がする。
命が無ければ元も子もない事に沢山の人が気付いたのだ。
まだまだ平和には程遠いが、2003年よりはマシになったと思う。
安泰なんてものは幻だったんだ。
この現実で生きる事とは、どんな人でも全てを失う可能性が常にあるのだ。
働いていた会社ではすぐに上手くいかなくなり、3ヶ月ほどでクビになってしまった。
もう営業要素のある仕事はやめようと思った。
人に押し付けるような事は俺には向いていない。
全く違う仕事をやろうと少ししてからポスティングの仕事に就いたが、朝早くから夜遅くまで歩き回り、買ったばかりの靴は1ヶ月で消耗し、大した給料も貰えず、住人から変な目で見られたり怒られる事もあったり、かなりグレーな事をやっているんじゃないかと思ったり心身共に蝕まれていった。
休んでも疲れが全く取れず、仕事の悪夢を見るようになり、1ヶ月ほどで限界が来てしまい辞めた。
2011年は人生最悪の1年だったと当時は言っていた。
何をやっても全てが裏目に出て上手くいかず、それが積み重なってもうどうすれば良いのか全く分からなくなった。
打ちのめされた俺は親と相談した結果、帰る期間を決めず鹿児島の実家へ帰った。
両親は優しく接してくれた。
これからも関東で生きていくのか?どうするのか?を毎日、ゆっくり過ごしながら考えた。
すると、だんだんとまた関東で生活したいという気持ちになっていった。
2週間ほどして、また関東で生活したいと決意が固まり関東へ戻った。
ライヴに行きたいのもそうだし、関東はワクワク出来る事が沢山あるからだ。
再び関東に戻ってきた時は凄くワクワクしていた。
そして倉庫の物流の仕事に就いた。
自転車で40分ほどかけて行く事が出来る場所で、天気が悪くない日は自転車で通勤していた。
所長が最初の方は無駄に厳しく接する人だったが、仕事に慣れてくるとそこまで当たりはキツくならなくなった。
この年にDIR EN GREYがリリースしたアルバム「DUM SPIRO SPERO」の意味、「生きる限り希望を持つ事は出来る。死んだら希望などない。」という言葉とアルバムの内容、BRAHMANの TOSHI-LOWさんがライヴで言っていた「今年出来たんなら、来年もやれるんじゃねぇ?」という言葉は凄く励みになった。
長年好きな音楽は、こんな時に自分が欲しい言葉を与えてくれる。
最悪だった2011年が終わる時は凄く感慨深いものがあった。
もう二度と来るなよ!と言い、2011年は去年となった。