「2012〜2013(28、29歳)」

俺は新木場にあったSTUDIO COASTという3000人くらいの大きなキャパのライヴハウスの雰囲気が大好きだった。
2011年の春だったか、新宿のSHIPSにageHaのマンスリースケジュールが置いてあり見てみると、STUDIO COASTにはメインフロアー以外にも、こんなにも面白そうなフロアーがあるのかと興味を持った。


DJオンリーのマトモなクラブイベントは行った事が無かったが行ってみたいと思い、スケジュールを毎月チェックし、2011年の10月に初めてageHaへ行った。


その日はテクノで、メインフロアーはオクタゴンスピーカーを使っていなかったが、野外のWATERエリアには衝撃を受けた。
東京で真夜中にプールを囲って野外で音楽を楽しめるなんて凄すぎると。
初めてのクラブイベントは、それまでロックやパンクのライヴばかりだった俺にはかなり新鮮でワクワクしまくり、次は違うジャンルの日に行きたいと思った。



2012年2月に行った時はINFINITY69というヒップホップよりのイベントだった。
その時にアメリカのヒップホップはこんなにカッコいい曲がいっぱいあるのか!と興奮した。
ヒップホップのクラブイベントの定番曲の1つであるT.I.のBring Em Outという曲のイケイケなヴァイブスに衝撃を受けた。
メジャーな日本のヒップホップとは全く違った。


3月にはFEVERという、R&B、HIP HOP、REGGAE/DANCE HALLのパーティーに行った。
当時のクラブシーンはEDMが大ブレイクする寸前のALL MIX全盛期で、ピークタイムにはそんな曲がかかっていた。


当時はかかってる曲の名前は1曲も分からなかったけど、HIP HOPのカッコ良さを存分に喰らいながらも、WATERエリアのレゲエ、ダンスホールの盛り上がり方にはとてつもない衝撃を受けた。
ギャグみたいで最高に狂っていてブッ飛びまくっていて笑いが止まらなかった。


レゲエはピースな音楽と見られている気がするが、ゆったりなルーツロックレゲエが一般的なレゲエだからだろう。
ルーツロックレゲエにも大好きな曲は沢山ある。
しかしダンスホールは日本の一般的な価値観の人には、とてもついていけないくらいに過激極まりない曲が多く、下品どころじゃない下ネタや、嫌いなヤツへの徹底的な殺意をエゲツないくらいに剥き出しに表現する曲がある。



直情的で自分の気持ちにどこまでも正直なのだ。
俺はそんなレゲエ、ダンスホールに感銘を受けた。
一見、陽気な音楽でありながらも本能剥き出しで狂気に満ちていて、実は凄くドロドロしていたりする。
これはパンクハードコアの精神に通じるものがあると思えた。



人間はどこかで本能を剥き出しにして爆発しなければ心が歪んでしまい、それが無差別殺人やネットでの中傷に繋がってしまうのではないかと思う。
そんな抑制をぶっ飛ばして尋常じゃない解放感を与えてくれるのがレゲエやダンスホールのノリだと思っている。
そこを意識すると軽い音が苦手な人でも違って聴こえて楽しめるかも知れない。
単純に日本にはないノリやメロディーやジャマイカンの声やイントネーションが好きだというのも勿論あるが。



クラブイベントの面白さと音楽に夢中になり、5月から12月まで月1、2でageHaへ通った。
FEVER以外にもテクノ、ハウス、トランスなど当時やっていたジャンルは全て行った。
まだShazamが無かったので、聴き取れたリリックを検索したりして必死に曲を見つけたりした。



そして曲を変えながら雰囲気やノリを作っていくDJに興味を持ち、自分でもやってみたいと思った。
これなら1人で自分を表現できるような気がした。
金を貯めてMacBookとDJ機材を購入し、独学でDJを始めた。
DJのインタビューを読みまくったり、クラブに行っては楽しみながらもDJのやっている事を自分なりに吸収していくようになった。


6月のageHaのWATERエリアで初めてHAZIMEさんのDJを見た。
ダイナミックな展開の作り方や、キレのあるスクラッチがかっこよすぎて、明らかに他のDJとはズバ抜けて違った。
以降、1番見ているDJになったが毎回のようにあの展開は凄かったという驚きがある。


倉庫の仕事は3ヶ月もすると新たに何かを覚えたり、より内容をパワーアップさせようというのも無くなった。
これで給料が良かったら悪くなかったが、元々給料も大して良くなく、秋くらいになると仕事量が少ない日もあり、そんな時は早く切り上げられ、その分給料が入らなくなる時があったため金は大して持っていなかった。


毎日、ただずっと同じ事ばかり繰り返していると自分が機械の一部のような気がして
嫌気がさした。
これは人間がやる意味があるのか?と。
少なくとも自分がやる事はこんな事ではないと思っていた。
給料も安定して入り、頭を使ってやり甲斐と成長にも繋がる仕事が良いと思えた。
仕事場の雰囲気も悪く、心を閉ざす事が多かった。


そんな中で俺は曲を作り、MacBookで動画を作成し、2011年の人生最悪の年に感じた苛立ちや悲しみや痛みを反映させた作品「底果ての生き様」を2012年12月にYouTubeで「ンンマ」名義で発表した。
これが初めて世に出した自分の作品だった。
どれくらい見てもらえるんだろうと思ったが、何の関連性もない無名の人間が発表したオリジナル曲は気付かれる事はなく全く見て貰えないんだと知った。
かと言って自分の作品を頻繁にアピールしようという気にもならなかった。


nine inch nailsの「the downward spiral」をモチーフにしている気がするが、今聴くとアンサンブルがメチャクチャで、とても音楽と言えるものではない。
ただ、当時の苦悩や狂気は充分に伝わってくる部分はパンチが効いているので今でも残してあって誰でも見られるようになっている。
この未熟な作品を残す事で今に至る成長を楽しめたらとも思っている。



2013年に入ると気持ちは前向きになっていた。
DJ機材を新調した事により、ビートを流せば自分が思っているライヴが出来ると思えたからだ。
バンドは組めなかったけど、1人でまたライヴ活動をやる事を決意し、倉庫の仕事では金銭的にも都合的にもライヴ活動が難しいため6月に転職した。



テレアポの経験をアピールし、営業は二度とやりたくなかったので案内系の仕事に就いた。
ネット回線関係の仕事だったがシステムが難しく、クレームに近い内容もあったがそれにより鍛えられた部分もあった。
給料も倉庫の仕事よりは遥かによく、休みはシフト制だったが融通が利いたので最初のうちはやり甲斐があった。



同じく6月に2009年9月以来に、東高円寺の二万電圧で「狂命」でライヴをやらせて貰った。
かなり久々のライヴは思うように出来なく、ライヴハウスのブッキング担当からも何がやりたいのか分からないと言われた。
しかし回数を重ねるうちに、次第にやりたいライヴが出来るようになり、ビートはDJ機材から流してエレキギターを弾き、時には作った曲を流してパフォーマンスを行ったり、社会や現実への怒りを表現した。


ブッキング担当からも3か4回目辺りで初めて良さが分かったと言われたり、以前はライヴハウスシーンで支持された人からも意思が伝わったと言われたりした時は嬉しかった。


ageHaのFEVERからの流れで渋谷のクラブHARLEMにも行くようになり、2013年はライヴ活動も再開し、遊びも行けて久々に充実感を得られた年だった。
ライヴでの客は妹しか来てくれなかったので、来年は何とか動員を増やしたいと思っていた。
毎回来てくれた妹には感謝している。
しかし、今まで現実にちゃんと向き合ってこなかったツケがこれから立ちはだかる事になる。

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