「2004年(20歳)」

年が明け2004年、実家の鹿児島へ初めて里帰りした。
家族は温かく迎えてくれ、ずっと確執があった親父も優しく迎えてくれた。
長男だから初めて家を出た時、母親は一週間近く毎日寂しくて泣いていたらしい。
当たり前のように毎日家にいた俺が上京して、いなくなる事によって俺に対する接し方が明らかに変わったのを感じた。



久々に人の温かさを感じるも、久々に会えたのが嬉しかったのか俺はドン底にいて、その事を言っても中々伝わらなかったのは悲しかった。
祖父も全く受け止めてくれず、喜んでいるだけだった。


そしてまた地獄の勤務へと戻り、ヤツの攻撃は激化してゆきストレス過多で立っている事もままならない状態になった。
何度も飛び降りて死のうと考えたが、去年行ったライヴの事を思うと何とか踏みとどまった。
この頃の自分は殆ど鬱病だったと思う。



ストレス過多による体調不良で仕事を休み勝ちになり、暫くは休んで良いという事になり、結果的に2月で退職する事になった。
すぐに寮を出て引越さないといけなくなった。
当時は東京からかなり離れた場所に住んでいたので埼玉へ引越しした。
急な状況であるにも関わらず親父が会社に休暇を取り、母親と一緒に関東にやってきて部屋を探して契約し、引越しまで手配してくれた。
親父がここまで自分の為に動いてくれるんだと、この時に親父への見方が一気に変わった。


親父は自分の否を認めず、悪く言うと機嫌が悪くなって自分の中に閉じこもる、素直さが全くない非常に気難しい人間だ。
だから俺は父親には何も干渉しない。
反面教師にしている部分があり俺は素直に生きよう、人にストレスを与えないような接し方をしようと意識するようになった。
ハッキリ言って人間的に尊敬できる点は殆どない。



それでもいざという時はちゃんと支えてくれる。
俺には直接は言わないが、ちゃんと気にはかけてくれている。
公務員の同じ仕事を30年ほどずっと続け、欲しいものは余り買って貰えなかったが、家族には貧しい思いは一切させなかった。
父親としての役割はちゃんと果たしている。


その点は本当に凄いと思えるし感謝している。
学生時代は敵だとすら思っていたが、俺にとってはかけがえのない父親だと今では思える。
どんなに家族に優しい父親でも、家族に貧しい思いをさせたら俺は父親として失格だと思っている。
俺を苦しめてきた事もあったが、他人の俺を苦しめてきた自分勝手なヤツらとは違うとハッキリ言える。



引越しも終わり、寮から出る時は清々しい開放感があった。
駅へ向かう途中のトンネルで歓喜の叫びを上げた。
完全な一人暮らしの生活は、やっと望んでいた完全なプライベートな空間を手に入れる事が出来たという喜びが大きかった。
一人暮らしを淋しいと思った事は一度もない。
1人ででも笑うし楽しい気分になれるし、何にも気を遣わなくて済む完全に1人でいられる時間が1番安心する。
実家暮らしの時は親が勝手に部屋に入ってきたりするのがたまらなく嫌だった。



そしてすぐに次の仕事を探した。
今思えば当時は酷く疲弊していたし、蓄えもあったので1ヶ月くらいは遊んでも良かったと思うが。
土日休みで日勤で残業が少ない条件を意識して探した。
すると割と早めに配線系の仕事に採用された。
今までの過酷な仕事や高校時代に取得した資格が評価されたんだと思う。
2月の下旬からは業務に就いた。
2月中に退職、引越し、再就職と怒涛の展開だ。



因みに退職した時にヤツに受けた嫌がらせを会社の上の人に全てブチマケていた。
それも影響したのか他の人にも嫌がらせはやっていたのと今までのボロも出たようで、ソイツは異動になったという話を元同僚から聞いた時はザマァミロと思った。
小6の時の卒業文集のリヴェンジのようだった。


晴れて新しい環境での仕事。
3月からはライヴにも頻繁に行けるようになった。
しかし、まだ前職のトラウマは振り切れなかった。
会社の人間と全くコミニュケーションを取れず仕事も出来ていなかった。
当時の俺は空気が読めなかったため、会社の人間が俺を不穏な目で見ている事に気付いていなかった。



GWに入る前日の4/30、呼び出され試用期間がもうすぐ過ぎるが、このままだとクビになると告げられた。
ショックを受けた俺は帰ってから泣き叫んだ。
苦しみばかりの人生をずっと送ってきて、やっと新しい生活が始まったのに、こんな事になるのかと。
結局俺は自分の望んでいる人生は送れないんだ。
俺の望んだ理想は何処にもないんだと深く絶望した。



翌日の5/1。
この日は新宿でライヴだった。
公園で自問自答を繰り返した。
自分は死ぬのか。死ぬならどんな方法で確実に死ぬのか。
それとも生きるのか。
本気で自分に問い詰めまくった。
その時に思ったのは、もうあの職場にはいないのに何でまだ苦しんでいるんだ?
まだまだこれからもライヴに行きたいんだろ?
今は叶い始めてきているじゃないか。
という事だった。



その瞬間、ずっと覆っていた重い雨雲がスッキリとなくなったような一気に開けたような気持ちになった。
5/1は自分が立ち直った日として今でも意識する事がある。
この日から中学時代からあった死にたいと思う事が何年かは無くなった。
もし、この時に死ぬ事を決意していたらもう居なかっただろう。
それくらい本気で自分に問い詰めた答えがまだ生きる事だった。



その後のライヴは何とも清々しい気持ちで楽しむ事が出来た。
この日はNoBのツアー初日。
雑誌でよく見たバンドの名前が沢山あったから行った。
しかし翌月の事故により鎌田さんが亡くなってしまい、また何とも言えない気持ちになってしまった。
立ち直ったあの日にライヴやっていた人が亡くなってしまうなんて。


結局、その会社はクビになってしまったが全くめげる事はなかった。
ライヴに行く為にまた仕事を見つけるという気持ちしかなかった。



6月からは清掃の仕事をやっていたとアピールし、病院の清掃のパートに採用された。
朝から夕方まで働き、仕事終わりや休日にはライヴに行きまくり2004年は30本ライヴに行けた。
オールナイトのライヴに行き、そのまま仕事してまたライヴに行ったり、今だったらあり得ないかも知れないがライヴ時間が大幅におして終電を逃して始発で帰り、そのまま仕事に行くという若さ故の無茶もやった。


この年にBRAHMANのライヴを初めて見る事が出来た。
一切MCをしないのにTOSHI-LOWさんの動きや歌は凄く心に響きまくり熱くなり、何故あんなライヴをやるんだろう?ここまで熱くさせるんだろう?と深く考えるようになり、インタビューや詩を読み、自分自身や生きる事や現実と命懸けで向き合う姿勢に強く感銘を受けた。



今では自分と向き合うだけじゃなく、外へ向けたメッセージを伝える要素も増えてきたり、ユーモアも沢山感じさせるようになったが、生きる事に全力で向き合う姿勢は何一つ変わっていない。
TOSHI-LOWさんの言葉や詩やインタビューは、ずっと感銘と学びを与え続けてくれている。



この年にリリースされた3年ぶりのアルバム「THE MIDDLE WAY」は独創的で、一つの苦難を乗り越えたような清々しさと力強さが尋常じゃないくらいにエモーショナルに鳴らされている色褪せない大名盤だと今でも思えるし、自分の当時の心境とも凄くリンクした。


物心ついた時から悲しみの中にいて、何度も死にそうになった人生だからこそ「何か良い事がある」だの「どうにかなる」といった楽観的な考えには全く共感できず、明日死ぬかも知れないからこそ後悔なく全力で生きる姿勢に強く感銘を受けた。



良い事なんて待ってても起きやしないし、生きていたから、どうにかなったなんて思わない。
良い事は自分の行動で掴み取る事であり、どうにもならなかった時は、その現実を受け止めて反省し次に繋げるしかないのだ。



この姿勢は京さんからも凄く感じていたが、Dir en greyの表現する痛みが、長年の闇から立ち上がったばかりの自分には重荷に感じるようになり、前向きに生きていく為には一度離れざるを得なくなった。
当時はまだ個が弱かったからDirの個性に喰われて、また闇に戻ってしまうような気がした。
2000年から4年間ずっと大切なバンドだったので離れる事に淋しさはあったが、これは今でも仕方なかったと思える。



20歳を迎える前のこの頃に自我に目覚めてきた感覚がある。
俺が自我に目覚めたのは、かなり遅い方だ。
長年の闇から立ち上がれた2004年は感慨深いものがあった。
しかし、心に残る大きな傷はまだ癒える事はなく救いと解放を求め続けていた。

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