「2005〜2006(21、22歳)」

闇から立ち上がれたのは良かったものの、2003年のトラウマと傷からはまだ立ち直れていない部分もあった。
イライラが募るとブチキレてリモコンや物を壊したり、やたら落ち込む事があった。


そして俺の受けてきた痛みと怒りを理不尽な社会や、俺を苦しめてきたような自分勝手なヤツらや心無いヤツらへ向けて表現してやる!という復讐心に満ちていた。


学校の教育とは社会に従順な奴隷を作り上げるためのものだったんだな!
夢や自由を謳って騙しやがって!
俺を虐げた社会の言いなりなんかになってたまるか!
俺は俺の意志でやりたい事を曲げずに生きてやるんだ!という意思表示で成人式を欠席し、この社会を変えてくれるような党に投票しに行くようになった。


成人祝いで親戚からお金を沢山貰ったのでエピフォンの4万円のエレキギターを購入し、教本を見ながらギターを覚えていった。
いつか曲が作れるようになって、理不尽な社会とクズ野郎をブッ飛ばせるような叫びを表現してやる!
この頃から歌って表現しようという気持ちはなく、音だけで表現するという方向性があった。


2003年から社会に出て俺が感じていた2000年代の社会の雰囲気はこうだ。
当時の社会はブラック企業なんて言葉がまだ無かった時代だ。
無理をする事が美徳とされ、ストレスを溜める事が常識であり、精神病や引きこもりは甘えと称され、自殺は弱者の仕方ない結果であり、昭和のパワハラ体質がまだ残り、国籍差別などもまだ強く根付いていた。
立場の強い者は決して不利に陥る事はなく、理不尽に虐げられた弱者は泣き寝入りするしかなかった。
上っ面だけの平和な社会だ。



うだつのあがらない苛立ちや憎しみは匿名掲示板での誹謗中傷やmixiのアンチコミュで爆発し、人間の醜い感情が集うその様を見た時は吐き気がした。
極悪非道そのもの。
どんなに追い詰められようが人間として失ってはいけないプライドがあると思えた。


違った考えや価値観を理解しようとせず、ぶつかり合い憎み合う。
だけど何が正解なのかは分からない。
ギスギスしていて常に苦悩しているかのような雰囲気が2000年代は漂っていた。
人の不幸や揚げ足取りで自分のアイデンティティを確立しようとする何の成就にも繋がらない泥沼。
昭和のバブルのような時代に戻れない希望を無くした大人たちの苛立ちと、その価値観の押し付けと、行き場が分からない若者たちの苛立ちの対立を感じていた。



銀杏BOYZ「君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命」「DOOR」、Dir en grey「Withering to death.」、VIVISICK「RESPECT AND HATE」辺りが2000年代のギスギスした雰囲気が凄くパッケージされていると感じるアルバムだ。
2000年代は深い「病み」の時代だった。


ギターを覚えながらライヴに月に4、5本は行き、2005年はライヴに52本も行った。
好きなバンドが出るイベントや気になるバンドのライヴがあれば、すぐにチケットを取ってライヴに行っていた。
ずっと良い思い出なんかなかった俺の人生がライヴによって彩られていった。



そんな中、時間が痛みを和らげた部分もあり上京してから自分を閉ざし勝ちだった反動がきて、多少は人と関わりたいと思うようになり、同年代の人がいなかった病院の清掃を辞めて都内のコンビニで働かせて貰うようになった。



同世代のバンドマンと仲良くなり遊んだり、一緒にライヴに行ったりもして楽しかった。
ロックスターのようなド派手な風貌でGUNS 'N ROSESが大好きでエレキギターを弾き、シルバーアクセサリーを作っていた1つ歳上の男がいた。
明るくて面白くてとても熱い人で明確な考えと夢を持っていた。
情熱で生きている部分が共通したのかも知れない。
彼の存在はとても刺激になり俺も負けじと熱く生きたいと思うようになった。
2024年現在は自分のアクセサリーで店をやっているようだ。



この頃から俺は堂々した立ち振る舞いを心掛けるようになった。
自分に自信がなくても俺をバカにするヤツはブッ潰してやる。これが俺だ!くらいの気持ちで生きるようになってからは、ナメられたりバカにされる事がなくなった。



上京してからも通りすがりの人からいきなりバカにされたり、ナメた態度を取られる事がちょくちょくあった。
今まで何故イジメの標的にされたりバカにされたりしてきたのかが分かった気がした。
これが出来るようになったのも自分の個が確立してきたからだと思う。
威圧するのではなく、堂々として毅然とした態度を取れば下に見られる事は激減する。


2005〜2006年くらいはパンクロックをメインに聴いていたが、その中でも独特な感じがするバンドが好きで、ハードコアの激速ブラストビートを聴いた時は俺が求めていた激しさはこれだ!と思えた。
中学時代に出会いたかった音だった。
BREAKfASTにハマり、BRAHMAN経由でGAUZEを知った。


ハードコアのバンドは音楽一本で生計を建てている人たちは日本では全くいないと思う。
だけどプロに負けないくらい全身全霊でライヴをやる。
GAUZEはライヴハウスをいつも満員にしていたが利益を出す事を嫌い、チケット代を最小限に抑えていた。


音楽をやるだけで意味がある。
これだけは譲れないものを貫く。
何にも媚びない。
といった姿勢には強く感銘を受けた。
男らしさと潔さを教えてくれたGAUZEに出会っていなければ今の自分は無いだろう。


金にも名声にもならない事をやる事に価値を見出せない考えは、俺から言わせれば退屈で心無くて下らない考えだと思える。
自分が最後死ぬ時に、やっていて良かったと思えるような事や、自分の心を癒せるような事は誰に何を言われてもやるべきだし、やり通す強さを持つ事が大事だ。



ただ自分の行動には責任を持ち、筋を通す必要がある。
俺も自分を貫いて生きる分、周りには絶対に迷惑をかけたくないという気持ちで生きている。
嫌われるのと迷惑をかけるのは違う。
自分の不慮で迷惑をかけたなら反省するが、好みや生理的な理由で自分の事を嫌うのなら勝手に嫌って貰って構わないと思っている。
ただ自分を嫌いなヤツは俺も嫌いだし、俺に危害を加えるなら立ちはだかる問題として立ち向かう。



2006年6月に祖父が亡くなった。
身内の初めての死だった。
妹から連絡がきて急遽、地元の鹿児島へ帰って葬式に参加した。
沢山の人が来ていて祖父は凄く人望があった人だったんだと思えた。
91歳まで生きて、生前に最後に見た時はだいぶ弱っていたから生きるところまで生きたんだと思えたので、意外と悲しい気持ちにはならなかった。



皆泣いていたが、祖父は人生を限界まで生き切り、こんなにも沢山の人が最期を見届けにきたんだから有終の美を飾れたのではと思えたので、俺は泣くのは違うと思い泣かなかった。
二度と会えなくなるのが寂しいのは分かるが葬式をこんなに暗くやる事に違和感すら覚えた。
死ぬ事は悪い事ばかりじゃないだろう。
もう少し前向きな要素があっても良いのではないか。



とは言え、1人の命がなくなるという事はこんなにも沢山の人と感情が動くものなんだと、1つの命の重さを凄く感じる事が出来て確実に人生観が1つ変わった。
小学の時は毎週泊まりに行ったり良くしてくれたし、親戚の集まりでも偉大なボスのような存在感がある祖父が好きだった。
祖父は命の重さを最期に教えてくれ、自分を生へとより向かわせてくれたので凄く良い経験になったと今でも思える。



コンビニのアルバイトでは、当時の自分は空気が読めず頭も悪く、自分の事しか見えていない上に仕事に対しての認識や責任をちゃんと理解していなかったため、随分と迷惑をかけてしまった。



問題を起こしてしまい解雇されそうになった時に仲が良かった同僚が一度止めてくれたものの、その後にクレームを起こしてしまい結局辞めざるを得ない状況になった。
その時に仲の良かった同僚を裏切ってしまったという気持ちになり凄く反省し、そこからなるべく人に迷惑をかけたくない。人の気持ちを裏切りたくないと強く思うようになり、周りの事を考えたり空気を読む事を意識するようになった。



解雇された翌日だったかBREAKfASTのライヴを見に行き、落ち込む中でその鬱憤をはらすようにメチャクチャに暴れていたら、ヴォーカルの森本さんがライヴ終わりに励ますように何も言わずに肩を叩いてくれた事があるのを覚えている。
何かを抱えて来ていた事が分かったのかも知れない。
その後、暫くは繋ぎみたいな感じで短期間で仕事をしていた。



2006年はライヴに行く本数が2005年と比べて半分以上に減った。
自分でも音楽で表現したいという気持ちは強くなり続け、スコアを見ながらギターを練習しては曲作りやコードとは何なのかを独自に考えたり、詩を書いたりしていた。


詩は理不尽な社会への怒りだったり、無常で残酷な現実への嘆きだったり、自分勝手な奴らへの苛立ちや人間のエゴの醜さを書いたものばかりだった。



そして2006年の10月くらいに初めてのオリジナル曲「支配されて」という曲を作った。
世の中の全ては壮大な悲劇に支配されているんだ。というダークな曲。
後にライヴ活動を行った時もよく演奏していたし、2017年に発表したアルバム「この世は失敗作です。」にも収録されている。
今でも割とこの曲は好きだ。


そんな中で秋くらいには再びDIR EN GREYに感銘を受け、ファンクラブにも再加入した。
DIRは人間の本質となる邪悪さや狂気を表現している。
結局は俺は楽観的な考えの方にはいけなかったから再び感銘を受けたのだ。
それにこの時はDIRの個性に喰われないくらいの自分の個もあるからこそ戻ってこれた。


ヴォーカルの京さんは後にもsukekiyoを組んだりと、2024年の今では色んな表現を行っているが、メッセージ性はずっと一貫している。
救いようがない悲しみや孤独。
その詩は自分の中にある心境の1つをずっと書き当て続けている。


だけどこの感情は決して悲観ではなく、人間本当は誰しもが持っているものだと思っている。
こじんまりとしたキャパで終わらずに、ライヴで何千人、時には1万人を集められるのは、難解に見えて実は普遍でもあるからだ。



俺は生きてきて生活面で家族や仕事に支えられたり、音楽に生かされてきたとは感じるし感謝しているけれど救われたと実感した事は一度もない。


どんなに苦しくても、死にそうな気持ちになっても助けてくれる人や直接支えてくれた人が現れた事はない。
現実は無常で残酷だ。
誰しもが救われるなら自殺者は1人も出ない。
生きていれば、また次の悲劇に見舞われる可能性が常にある。
呆気なく死んでしまうよりも、長い生き地獄を味わう方がよっぽど恐ろしい。



高校1年くらいの時からだったか。
こんな傷だらけで良い事がなく生きてきた自分を救って欲しいと願い始めた。
そんな自分を愛して欲しい。
抱きしめて欲しい。
自分が愛せる人と愛し合いたい。
その人に悲しみがあるなら自分が癒したい。
自分と同じように救われない気持ちを自分が救いたい。
自分と同じような悲しみを持って欲しくない。
どうしようもないくらいにときめいて、ドキドキし合いたい。


そんな人に出会う事もなく、心は渇望を抱えたまま生きてきた。
だけど1人でいる事が好きで退屈する事もなく、寂しさという感情が欠落している俺は誰かが傍にいてくれなくても苦までにはならなかった。
だから貪欲にそういう人を見付けたいという気持ちにもならなかった。



逆に変に助けられていたりしたら、弱った時に誰かが助けてくれないと生きていけないような人間になっていたかも知れないと思うと、これでも悪くなかっただろうし、この状況だからこそ強くなれた部分もあると思う。


だけど本当は全員が心からお互いに本当の意味で愛し合える人に出逢えたら良いと思ったりする。
そしたら世界はかなり平和になるはずだ。
でも、そうなれないから人間は難しく複雑で嫌になる事が多々ある。



たった1人、自分だけが見えている世界にいるのか?
たった1人、自分だけがいない世界にいるのか?
そんな俺だからこそ、京さんの表現する救われない孤独に感銘を受け続けているのだ。


「愛し天使」

憧れの輝きを纏って
僕の目の前に現れた
とっても可愛い天使
僕の心を射止めてしまった


その姿を見るだけで生きていける
笑顔を見るだけで幸せな気持ちになれる
悲しそうにしていたら助けたくなるし
目が合ったりしたら死にそうなくらいドキドキしちゃうよ
夢のような存在


愛を教えてくれるの?
今までの僕の人生の痛みを癒して
「愛されたい」
あなたの悲しい気持ちに寄り添いたい
「愛したい」


このままゼロ距離で
絡み合って溶け合って
愛が溢れて幸せの絶頂になるかと思っていたら
天使は1人の人間に姿を変えていた


「難しいでしょ
あなたの心の奥底
私の心の奥底
全部見てしまったら
魔法は解けてしまうわ」

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