「2007〜2009(23〜25歳)」

建設現場の日雇いの仕事をしながらも定職を探していた。
この頃は最初に働いた会社のトラウマと、社会への不信から正社員には絶対にならないと決めていたから、ずっとアルバイト雇用で探していた。
2007年3月。求人誌に載っていた「資料発送の仕事」という名目で凄く雰囲気が良さそうな仕事が目に入った。
時給もかなり良く、これは難しい技術が求められたりするんだろうと思った。
一か八か電話してみると凄く感じ良く対応され、すんなりと面接が決まった。


面接当日に着いた綺麗で立派なビル。
全く受かる気がしなかった。
どうせ砕け散るなら全力で砕け散ってやる!と2006年9月のコンビニ以降、定職に就けずストレスも溜まっていたので、ひたすらやる気と出来そうな事をアピールしようと意気込んでビルに入った。


清潔感溢れるオフィスで優しそうな兄さんと面接をしたが何も難しい事はなく、俺が音楽が好きな事について「当社では音楽やってプロを目指している人が結構いる。」と言った時に、ここで働きたいと思い、そしてその場でなんと採用が決まった。


かなりびっくりしたが、このチャンスは無駄にしないぞ!と思った。
今思えば資格や学歴よりも人間性を重視していて、人間的に問題が無さそうな限りは基本的に全員採用している感じだったと思う。


初日前の夜は緊張で殆ど眠れなかった。
同期は10人程いて歌をやってる人や、髪が長い男や個性的な人が多かった。
初日からとにかく雰囲気を良くする事を心がけており、打ち解けるのも早かった。
その日の最後は職場を見学し、メンバーの誕生日を盛大に祝っていて、凄く雰囲気が良い職場で面白そうだと思った。



仕事の内容は保険のテレアポで、ちゃんとしたマトモな仕事だった。
電話をする仕事だとは思っていなかったので少し躊躇いはあったが職場の雰囲気の良さに後押しされ、コンビニ時代に培った言葉遣いと、高校の授業で習ったパソコンが役に立った。
俺は片っ端から自宅の固定電話に電話していき、保険の資料を送付しても良いかという確認を行う担当だった。



当時はコンプラも緩く、無理矢理に近い感じで契約を取る事もよくあったので、かなり景気が良かったように感じた。
出勤時間や出勤日の融通もかなり聞いてくれたし、出勤するだけでも今までには考えられないくらいに収入が入った。



その給料でギブソンのエレキギター、エクスプローラーを一括で購入した。
稲妻のようなカッコ良すぎるフォルムとパワーのある図太い音。
ルックスも音もこれ以上のギターは無いと満足してしまい、エレキギターを欲しくなる事がこれ以降は無くなってしまった。
2024年の今もずっと使い続けている愛器だ。


DIR EN GREYのライヴに再び行くようにはなったが、2007年は14本とライヴに行く本数が激減した。
とにかく自分の音楽というか表現に没頭し始めていた。


上っ面しかみていない世の中への怒りの曲「表面解釈」
自分勝手なヤツらへの苛立ちを爆発させた「クズ以下」
中傷に満ちた醜さへの訴えの「批判の言葉」
下らない社会への苛立ちを爆発させた「ノレねぇ社会」
など、今まで感じてきた現実や社会への怒りをひたすら曲にしていた。


当時は音を形にする環境がなかったため、頭の中にしか完成系がなかった。
エレキギターとドラムだけの音楽。
世の中や現実への怒りを表現する。
残酷な現実で生存する事とは狂気だという意味を込めて、このプロジェクトを「狂命」と名付けた。


毎月2、3回スタジオに入り、ライヴを想定した練習を行っていた。
ドラムはいないので作った曲をエレキギターで弾きながら暴れたりパフォーマンスを行う練習を行っていた。
自分の中にある、どうしようもない気持ちを曲にして思い切り暴れるとストレス解消とはまた違った、浄化されて解放されたような気分になれた。


自分の作った楽曲は世界一自分が共感できる曲だ。
どんなに好きな音楽に共感出来たとしても、自分には自分の言い分がある。やりたい表現方法がある。
だから自分でもやるしか無かった。
今でも音楽をやり続ける理由は自分で表現したい事があるからだ。
目立ちたいとか、有名になりたいとかはパンク・ハードコアの精神の影響もあって殆どなかった。
自分がやりたいからやる。自分が狂気に染まって道を踏み外してしまわない為にやるのだ。



並行してドラムを探してスタジオやライヴハウスにメンバー募集の張り紙をしたが全く反応がなかった。
2008年になってもメンバーが見つからず、このままだとライヴが出来ないと悩んでいた時、妹が「1人でやれば良い。」と言った。
当時は早く叫びを表現したくて爆発寸前だった。


妹も高校卒業後は専門学校で上京し、そのままずっと東京で暮らしている。
いつからか1ヶ月か2ヶ月に一度は一緒に会食し、ライヴも一緒に行ったりした。
妹は漫画描きでクレイジーなところがあり、会うといつも笑ってしまう楽しいヤツだ。
家族想いで、生きる事や現実に対してネガティヴな印象を多く持つ俺とは対照的に、人間そのものをポジティブに考えている所がある。


妹は何となく言ったようだが、それだ!と思いまずは1人でライヴ活動をしようと決意した。
バンドマンの同僚に渋谷CYCLONEを紹介して貰い、激しく弾き鳴らしたエレキギターしか入っていないテープを持参して初ライヴが決まった。


2008年8月のオールナイト公演に初ライヴをやらせて貰った。
2005年にギターを手にしてから漠然と目指し始めたステージ。
今までの人生の大舞台に立つかのようだった。
妹と同僚が見にきてくれた。


初めてのステージは緊張しすぎて頭が真っ白になり、やりたい事が全く出来なくてステージ上で謝った。
最後の曲で弦で爪を切ってギターが血だらけになった。
ステージというものに打ちのめされてしまったけど次のライヴも決めてくれた。



自分が初めてライヴをやる側になった時。
確実に人生が1つ変わった。
この日を期に裏で何を言われようが、どうでも良くなった。
自分の反響ばかり気にしていたら人前で思い切り表現する事なんて出来ない。
より自分を貫く事に迷いがなくなった。



陰口叩かれようが、どっかの掲示板でバカにされようが、今で言えば鍵アカで何か言われていようが自分に直接危害がなければ俺はどうでも良いと思える。
個人の好みや価値観や考えが合わなくて誰かに嫌われる事なんか本気でどうでも良い。
ただ、迷惑をかけてしまった場合は行動を見直す必要はあるが。



それからは月1ペースでライヴをやらせて貰うようになり、2回目からは余り緊張しなくなり回数を重ねる毎にやりたいライヴをやれるようになっていった。
12月には同僚が沢山見にきてくれた。
音楽よりもパフォーマンスだったけれど、奇行に走ったり、全力で何かを表現したいという意思は伝わったようで見応えはあったような反応だった。


楽曲を披露する以外にも曲の合間や最中で色んな事をやった。
曲作り以外でも普段から次のライヴで何をやろうか考えるようになった。
当時書いていた散文詩を朗読したり、アンプヘッドの黒いケースを頭から被って転げ回ったり、日常で出たペットボトルを集めて持ってきて踏み潰しまくったり、ステージから降りて走り回ったりと世の中への怒りを表現しまくった。
ずっとやられっぱなしだった人生に初めて殴り返す事ができた気分だった。



最初は俺を虐げてきた社会への報復の一心だったが、ライヴを重ねる度に見に来た人を熱くさせたいという気持ちも大きくなっていき、見ている人を一緒に熱くなろうぜ!と煽るような場面も増えていった。


自分の人生への復讐とは、俺に危害を加えてきたヤツらが不幸になったり死んだりする事じゃない。
そんな事を望んだって何も良い人生にはならない。
はたまた関係ない人間に危害を加えるなんてもっての外だ。
関係ない人間に危害を加えた時点で、てめえも危害を加えたヤツらと同類だ。
社会的な成功なんてしなくても良いし自己満足で良い。
暗闇にいた時の自分よりも、今が良い人生を送っていると思える事。
それこそが1番の復讐だ。


「報復の狂命」

潰せ!潰せ!潰せ!潰せ!
俺の過去の苦しみ俺を苦しめる現実
壊せ!壊せ!壊せ!壊せ!
俺を縛り付けるもの
自己否定のネガティヴ
下らない固定概念

生存とは狂気
生存する為に犠牲を産む
そんなの狂気だろ!
矛盾してようが叫んでやる
狂った命!

殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!
憂鬱、絶望、ストレス、憎しみ
消えろ!消えろ!消えろ!消えろ!
君を悲しませるもの
大事な人を苦しめるもの
人生の邪魔をするんじゃねぇ!

こんな残酷な現実
叫ぶしかないだろ!
反抗しろ!
無常な現実
無慈悲な社会
下らない価値観
人間の悲しみ
訴えかけろ! 


パンチが効いていたようで、驚かれた感じの反応やライヴ後に対バンがビビったりした事もあった。
楽曲はともかく、自分を表現したいんだという熱意はズバ抜けていたと思う。
他には高円寺無力無善寺でもライヴをやらせて貰った。



しかし本当はバンドを組んで音楽をやりたいという理想からかけ離れていて、このまま1人で活動する気にはなれず、ドラムも見つからなかったので2009年9月に一度ライヴ活動を止める事にした。
次はバンドを組んでライヴをやるぞ!と思っていた。


その保険の仕事は本当に良くしてくれた。
営業ではあるが基本的に雰囲気は良く、自分の事を受け入れてくれている感じもあり、同僚とも良い感じで仕事が出来たり、そんな会社に少しでも貢献したいと思うようになった。
しかし次第にコンプラも厳しくなり、バブルみたいな状況もなくなっていき、リスト状況も厳しくなっていき、給料も成績によっては下がる条件も出てきたりして変わっていった。
そんな中でも2年は何とか繋いでいけた。
俺は直接営業はせず、ずっと資料発送係だったからこそ続けられた部分もあった。



そんな中で2009年の6月に人も大きく変わって異動があり、今までとは全然違う部署になった。
大分色んな事が変わってしまったのもあり、仕事内容にも疲弊してしまったので2009年の7月の上旬でアッサリと辞めてしまった。



ここで辞めた事は後々大きな後悔となった。
次にどんな仕事をするのかも明確に決まっていなかった。
辞めるなら次に何の仕事をするのかを探 考えたり探しながら仕事を続けて、本当に今の仕事を辞めても後悔しないかを何度も自分に問いかけて、明確に辞める日を決めてその日までしっかり業務してから辞めるべきだった。
状況は変わってしまっても、2年以上働いてきた会社だ。
この時点では過去最長に続いた仕事だった。
営業会社ではあったが決して従業員をクビにする事はしない会社だった。
本当にやり尽くしたのかと思えば、やり尽くしていなかったと思う。
当時は頭が悪かったし、考えが甘かったのだ。


この仕事で得た、お客さんとの駆け引きや仕事のこなし方やパソコンを使用した業務は、これから先の技術として多いに役に立つ事になる。
電気科の高校時代に取った資格よりもよっぽど役に立っている。
後々はこの技術を元に時給の高い仕事に就けるようになったので、ここで働けた事は大きなルーツとなっているので今でも凄く感謝している。



仕事を辞めてからは日雇いのコンサートの設備スタッフなどをやったが収入が全く安定せず、また建設現場の日雇いで働いた。
しかし日雇いの仕事も仕事が無い日があったりと安定せず、今では考えられないが仕事の日は出発する電話をしなければならず電話代はかかるし、毎回のように違う現場で当時はグーグルマップも無かったから地図を見て必死に場所を見つけたり、かなり遠くへ行く事もあった。



上手くいかない状況にイライラしていた。
あの会社で楽しく働けていた事が切なかった。
こんな事になるなら、あの時に簡単に辞めるべきではなかったと後悔が大きくなっていった。

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