にわ冬莉
私には三分以内にやらなければならないことがあった。 身支度を整え、家を、出る。 次の電車に乗らなければ、完全に遅刻だ。 こんな日に限って昼まで寝てしまうなんて……。 私は慌てて顔を洗い、メイクをする。 三分しかないのだから、塗ってるうちに入らないようなテキトーメイクになってしまうが、仕方ない。描いたって描かなくたって、大して変わらないのだからこの際どうでもいいだろう。 眉毛を片方書き終えたところで、電話が鳴る。 何だってこんな時に! 私は慌てて電話を取
穴に、落ちていた。 気付いた時には、私は深くて暗い穴の中にいた。 手探りで辺りに手を伸ばしても誰もいない。音も聞こえない。どこまで続くのか、いつ終わるのかもしれない穴の中にいたんだ──。 「あ、目、覚めた?」 目を開けて最初に飛び込んできたのは私のよく知る顔だった。 「……矢島……君?」 会社の後輩。二つしか違わないのに、彼はとてもファニーフェイスで、そのくせ気が利くというか、抜かりないというか……営業先でもウケが良い。 そんな彼が目の前にいることに、違和感。
生きていれば、選択の繰り返しであり、そしてそこには、悩みがつきものである。 初めて真剣に悩んだのは中学生の時だったろうか。俺は、運動部に入るか文化部に入るかで、迷っていた。 小学校では野球をやっていたのだ。だが、俺の進んだ中学の野球部はクラブチーム上がりが集まるガチなやつ。俺は仲間と楽しくやる野球が好きだったから、あんまりガチなやつは御免被りたかった。 その頃俺が仲良くしていた友人が『美術部に入る』などと抜かしていたこともあり、このままゆる~く文化部で過ごすのもい
5 マリアと一緒に過ごさなくなってから一カ月近くなる。 自分で決めたことなのに、なんだか心にぽっかりと穴が開いたみたいな気分だった。 やっぱり俺、マリアが好きなんだな。あの日、手を繋いだ感覚が忘れられない。ああ、ほんとはもっとしたい! 抱き締めたり、キスしたり、色んなこと!! だけど……、 俺は罪悪感ってやつでいっぱいになってた。だってさ、嘘ついて彼女になってもらったんだぜ? そんなの、なしだろ。マリアが好きなのは秋斗なのにさ。 マリアを愛しいと思えば思うほ
4 私は足早に去っていくカズ君の後ろ姿に声を掛けたかったけど、すぐに携帯で電話を始めてしまった彼に、声をかけられなかった。 その時、ポロっとカズ君のポケットから何かが落ちた。カズ君は気付いてない。 私は遠くなっていくカズ君の後ろ姿をしばらく見送った。振り向いてくれないかな、って思ったんだけど、一度も振り返ってはくれなかった。 カズ君のポケットから落ちたものを、拾うと、水族館の売店の小さな紙袋。いつの間にお土産なんか買ってたんだろう。 お土産? 誰に? 「も
3 俺とマリアの付き合いは順調だった。 放課後デートも楽しかったし、休日に出かけたりもしたし、テスト前には勉強会なんかもやってさ。 俺は、罪悪感は勿論あったけど、なんていうか、マリアと一緒にいられるのが嬉しかったし、一緒の時間を過ごせば過ごすほど、マリアを好きになったし、だからもう、とにかく好きだ、って言い続けてた。 マリアは、最初のうちは俺に気を遣ってたみたいだけど、一緒に過ごすうちにすごくこう、自然になっていったっていうか、昔のマリアみたいになってた。俺が好
2 まさかこんなことになるなんて思っていなかった。だって私、秋斗君のことが好きだったんだもん。なのになんで…、 「わかった。私でよければ、いいよ」 カズ君の告白を聞いて、私ったら笑顔でそう答えてたんだよ!! 私の返事を聞いて、カズ君、飛び上がって喜んでて……そんな姿見てたら、なんだか嬉しくなっちゃってさ。単純だよね、私。なんか、必要とされてるってことが嬉しかったんだ。それにさ、カズ君て、昔から変わらず優しいし。 「ほんとにありがと! 俺、マリアのこと大事にする!
1 「こんなこと言うのはズルいかもしれないけどさ、俺、あんまり長くないんだよね」 「長くないって……えっ?」 そりゃそうだよな。急にこんなこと言われたら、そういう顔しちゃうよな。俺、すんげぇズルいし最低なことしてるってわかってるんだけどさ、でも、同情でもなんでもいいから、どうしても振り向いてほしいって思っちゃったんだよ。 「あ、ごめん。なんか、嫌な言い方だよね、こんなの。同情買うみたいで」 「本当……なの?」 うわ! やっば! ウルウルの瞳から涙こぼれそうになって
そこに ふたつのてがあった。 それは とてもちいさなてだ。 このてはすごい! みぎのては おかあさんのゆびをギュ ひだりては おとうさんのゆびをギュ たったそれだけで 「しあわせ」をあたえてくれる まほうの、て そこに ふたつのてがあった。 それは パンやさんのてだ このてはすごい! こむぎこを コネコネぐるん くるくるまるめて オープンへぽい ほかほかのパンができあがり おいしいね、とってもおいしいね まほうの、て そこに ふたつのてがあった それは とこやさんのて
「ていうかさ、高橋って未知に気があるよね」 目の前でニヤニヤしながら咲良が言った。 私は思わず口に含んだイチゴミルクを吹き出しそうになった。 「ちょ、なにそれ!」 昼休み、中庭のベンチ。朝は寒いけど、今日みたいな天気の日はお日様が心地よいぬくもりをくれる。 「だってさぁ、さっきも授業中未知のこと見てたもん!」 うりうり、と肘で私の脇腹をつつき、咲良。完全に楽しんでる。 「そりゃ、斜め後ろの席だもん、黒板見るとき私の後ろ姿も見えるでしょ」 「ちーがうちがう!
誰かがわたしの隣に座ってね、スッ、と手を伸ばすの 伸ばされた右手が、わたしの喉元を捉える わたしは内心ドキドキしながら、だけどすごく期待しながら、少し冷たいその右手を感じる 左手もまた、添えられるようにすっと伸ばされ、ゆっくり、ゆっくりと指に力が入っていく わたしは頭の中が真っ白になって、まるで宙に浮いてしまいそうなほどフワリとした感覚に身を委ねるの トクリ、トクリと音を立てていくわたしの心臓が、次第にボルテージを上げていく… ああ、これでいい これでいいんだ、って頭の
うちには、「ひなた」というなまえのねこがいる。 ぼくはおもう。 ひなたは、うちゅうねこだ。 ときどきじっとそらをみあげているのは、うちゅうとこうしんしているからにちがいない。 ひなたがみているほうをみても、てんじょうがあるだけでなにもいないもの。 きっとちょうおんぱでうちゅうじんたちとはなしをしているんだ。 ひなたはあさおきるとぼくにすりよってくる。 ぼくがしゃがんでひなたのあたまをなでると、ゴロンとおなかをみせてのどをならすんだ。 ゴロゴロゴロ… これはきっとうちゅうご
鉄橋を渡り終えた電車が緩やかに、滑らかにホームへと吸い込まれる。さほど混みあってもいない電車を降り、改札を潜る。とっぷりと暮れた空にはもうすぐ真ん丸になるであろう少しだけ歪な白い月が浮かんでいた。 ああ、と、漏れてしまう声を飲み込んで、空を見上げる。 あの月の向こうに、彼女はいるのか。儚くも強く生きた彼女は、あの場所で笑っているのだろうか……。 ゆっくりと歩きながら、同じように動く月を追いかける。 死んだ人間が行くのは天国か、地獄。それとも輪廻という都合のいい
つかつかと早足で歩く私の後を、彼が慌てて付いてきている。 「待ってくれよ!」 必死の形相なのは顔を見なくても分かる。そりゃそうよね、私、婚約破棄を申し出たんだから。 事の発端は三日前。あなたは私に内緒で女と会ってた。 それを見た私の気持ちがわかる? 結婚しよう、ってプロポーズされて、お互いの両親に挨拶も済ませて、結婚式の話をして、幸せの絶頂な私の心を裏切ったのはあなた。 「もう、付いてこないでよ!」 今更何言われたって無駄なの! 背を向けて足早に歩く彼女を追
嫌い。 私は全部が嫌い。 お父さんの髪が薄いのも、お母さんが太ってるのも、親譲りの一重で全然可愛くない顔も。 家がお金持ちじゃないのも、弟が生意気なのも、成績が中の下なのも、運動神経鈍いのも全部嫌い。 この前だって体育の時間、バレーボール頭で受けるとか、有り得ない。 何でああいう時、女の子って『ちょっと抜けてる感じ、可愛いよ』とか嘘言うの? そんなわけないじゃん。 ただの運動音痴だもん。 嫌い。 運の悪さも、いつもこうやってうじうじ悩んでばかりなのも
酔いどれていたのは、間違いない。 いつもよりちょ~~~っとだけ、多めに飲んだような気もする。 健康診断でメタボに引っかかって早十四年。揚げ物や塩分を控えなさい、なんて言われたって、旨いものってぇのは油と塩分で出来てんだから仕方ねぇだろってんだ、おっとっと。 帰り道は静かで、人っ子一人、歩いちゃいない。 田舎の一本道を、ひたすら歩く。 いつもなら電話一本でかぁちゃんが迎えに来てくれるんだけどなぁ。 今朝の喧嘩があと引いてるんだな、ありゃ。 《チャッキョ》、よ